本題に入る前にアンケートを。お題は「明智光秀=天海」か。
明智光秀は山崎の合戦で生きのびて、南光坊天海となって徳川家康のブレーンになったという説は昔から言われていました。では、明智光秀=天海なのでしょうか?
そのように信じていらっしゃる方も少なくないかと思われますが、なんとも言えないというのが僕の意見です。
なぜなら明智光秀が天海と同一人物だという決定的な証拠がないと思うからです。もちろん、歴史は荒唐無稽なことでも否定をせずに、とことん真実を調べないと真理がつかめないと思われます。実際、トロイはギリシャ神話にでてくる伝説で実際の話ではないと信じられておりましたが、シュリーマンの発掘でトロイが実在していたことが証明されましたからね。
とはいえ、天海が光秀だとはっきり書かれた資料が今後見つかれば、僕も天海=光秀だと認めますが、今の時点では保留ですね。
たしかに光秀が天海である根拠の一つとして、日光には明智平という場所があるとか、東照宮(とうしょうぐう)にも明智家の家紋である桔梗紋があるというのがあります。
ある歴史番組では光秀の家臣だった斉藤利三(さいとうとしみつ)の娘のお福(のちの春日局)が天海にあった時「お久しぶりでございます。」と言ったことも根拠のひとつだと言っていました。
また、あるテレビの歴史番組で「光秀の筆跡と天海の筆跡をくらべていて両方ともよく似ている」なんて番組のレポーターは言っていました。
光秀が天海である根拠があるように、逆に「光秀が天海であるわけがない」という根拠もあります。そのひとつは天海と光秀が年齢がちがいすぎるということです。天海=光秀だとすると、天海の死亡時の年齢が百歳を越えてしまうのです。明智光秀が生まれたのが1528年。で、天海が亡くなったのは1643年。1643−1528=115。115歳なんてすごすぎです。これは安土桃山時代の平均寿命が50歳くらいだとすると、かなりすごいです。というか、現代でも115歳まで生きるのは大変ですね。
明智の家紋である桔梗紋ですが、この桔梗紋を家紋として使っていた武将は明智光秀だけじゃないみたいです。もともと桔梗紋は、清和源氏系の土岐氏が使っていたものです。僕が大好きな加藤清正も蛇の目紋のほかに桔梗紋も併用していたようです。
それどころか、日光東照宮には桔梗紋なんてないなんて意見もあります。確かに似てはいるけれど、よくみるとデザインが違うとか。今度東照宮に行く機会があれば、確かめたいところですね。
天海が残したという筆跡にしても、明智光秀と天海の二つの筆跡を見た感じでは、同一人物には思えなかったなあ〜(あくまでシロウト判断だけれども)。それに、お福が天海をみて「お久しぶりでございます」といったのも、天海とお福が単なる知人だった可能性もありますし。
また、光秀の首と遺体は、山崎の合戦の後すぐに京都に護送され粟田口(あわたくち)で磔にされたと当時の公家やお坊さんの日記に書かれているようです。
一方で、光秀は生き延びたという言い伝えもあるようです。この間「世界ふしぎ発見」で明智光秀のことが取り上げられたのですが、驚きましたね。なんでも、明智光秀のお墓が岐阜県の山県市中洞というところにあるそうです。そのお墓には光秀の命日が刻まれており、慶長5年(1600年)9月15日に亡くなっているとのことです。その日はなんと関ヶ原の合戦が始まった日です。光秀には身代わりがいて、荒木行信という人が光秀の代わりに死んで、光秀は中洞まで逃げたと言います。中洞は実は光秀の母の故郷だといわれております。もしかすると、光秀が生き延びた可能性はあるかもしれませんね。
でも、光秀が生き延びたとして、それで光秀=天海かといえば、それはそれ、話は別。光秀が仮に生き延びていたとしても、光秀が表舞台に立つことは極めてむずかしいでしょう。
なぜなら、光秀の存在は豊臣秀吉にとって非常に都合が悪いからです。秀吉が天下をとった大義名分は、「主君を裏切った明智光秀をやっつけた」です。それで明智光秀が生きていたとなると、これは秀吉政権をゆるがすような大問題になるでしょう。それこそ秀吉は血眼になって光秀を探し出すでしょう。そうなると光秀は死ぬまで不要不急の外出ができない、ひっそりとした生活を余儀なくされるでしょう。
家康が天海と初めて出会った時期はハッキリしないのですが、少なくとも秀吉の小田原攻め(北条せめ)の時にはすでに天海は家康の陣にいたと言います。そうなると、天海=光秀だとしたら、秀吉勢は大騒ぎになるのではないかと?それこそ秀吉は激怒し、天海どころか家康も大変な目に会うのでは?
いろいろ書かせていただきましたが、僕は光秀=天海説を全否定するつもりはありません。ただ根拠が乏しすぎて、今の時点では光秀が天海だと断定できないのですね。
※ 参考文献
明智光秀は山崎の合戦で生きのびて、南光坊天海となって徳川家康のブレーンになったという説は昔から言われていました。では、明智光秀=天海なのでしょうか?
そのように信じていらっしゃる方も少なくないかと思われますが、なんとも言えないというのが僕の意見です。
なぜなら明智光秀が天海と同一人物だという決定的な証拠がないと思うからです。もちろん、歴史は荒唐無稽なことでも否定をせずに、とことん真実を調べないと真理がつかめないと思われます。実際、トロイはギリシャ神話にでてくる伝説で実際の話ではないと信じられておりましたが、シュリーマンの発掘でトロイが実在していたことが証明されましたからね。
とはいえ、天海が光秀だとはっきり書かれた資料が今後見つかれば、僕も天海=光秀だと認めますが、今の時点では保留ですね。
たしかに光秀が天海である根拠の一つとして、日光には明智平という場所があるとか、東照宮(とうしょうぐう)にも明智家の家紋である桔梗紋があるというのがあります。
ある歴史番組では光秀の家臣だった斉藤利三(さいとうとしみつ)の娘のお福(のちの春日局)が天海にあった時「お久しぶりでございます。」と言ったことも根拠のひとつだと言っていました。
また、あるテレビの歴史番組で「光秀の筆跡と天海の筆跡をくらべていて両方ともよく似ている」なんて番組のレポーターは言っていました。
光秀が天海である根拠があるように、逆に「光秀が天海であるわけがない」という根拠もあります。そのひとつは天海と光秀が年齢がちがいすぎるということです。天海=光秀だとすると、天海の死亡時の年齢が百歳を越えてしまうのです。明智光秀が生まれたのが1528年。で、天海が亡くなったのは1643年。1643−1528=115。115歳なんてすごすぎです。これは安土桃山時代の平均寿命が50歳くらいだとすると、かなりすごいです。というか、現代でも115歳まで生きるのは大変ですね。
明智の家紋である桔梗紋ですが、この桔梗紋を家紋として使っていた武将は明智光秀だけじゃないみたいです。もともと桔梗紋は、清和源氏系の土岐氏が使っていたものです。僕が大好きな加藤清正も蛇の目紋のほかに桔梗紋も併用していたようです。
それどころか、日光東照宮には桔梗紋なんてないなんて意見もあります。確かに似てはいるけれど、よくみるとデザインが違うとか。今度東照宮に行く機会があれば、確かめたいところですね。
天海が残したという筆跡にしても、明智光秀と天海の二つの筆跡を見た感じでは、同一人物には思えなかったなあ〜(あくまでシロウト判断だけれども)。それに、お福が天海をみて「お久しぶりでございます」といったのも、天海とお福が単なる知人だった可能性もありますし。
また、光秀の首と遺体は、山崎の合戦の後すぐに京都に護送され粟田口(あわたくち)で磔にされたと当時の公家やお坊さんの日記に書かれているようです。
一方で、光秀は生き延びたという言い伝えもあるようです。この間「世界ふしぎ発見」で明智光秀のことが取り上げられたのですが、驚きましたね。なんでも、明智光秀のお墓が岐阜県の山県市中洞というところにあるそうです。そのお墓には光秀の命日が刻まれており、慶長5年(1600年)9月15日に亡くなっているとのことです。その日はなんと関ヶ原の合戦が始まった日です。光秀には身代わりがいて、荒木行信という人が光秀の代わりに死んで、光秀は中洞まで逃げたと言います。中洞は実は光秀の母の故郷だといわれております。もしかすると、光秀が生き延びた可能性はあるかもしれませんね。
でも、光秀が生き延びたとして、それで光秀=天海かといえば、それはそれ、話は別。光秀が仮に生き延びていたとしても、光秀が表舞台に立つことは極めてむずかしいでしょう。
なぜなら、光秀の存在は豊臣秀吉にとって非常に都合が悪いからです。秀吉が天下をとった大義名分は、「主君を裏切った明智光秀をやっつけた」です。それで明智光秀が生きていたとなると、これは秀吉政権をゆるがすような大問題になるでしょう。それこそ秀吉は血眼になって光秀を探し出すでしょう。そうなると光秀は死ぬまで不要不急の外出ができない、ひっそりとした生活を余儀なくされるでしょう。
家康が天海と初めて出会った時期はハッキリしないのですが、少なくとも秀吉の小田原攻め(北条せめ)の時にはすでに天海は家康の陣にいたと言います。そうなると、天海=光秀だとしたら、秀吉勢は大騒ぎになるのではないかと?それこそ秀吉は激怒し、天海どころか家康も大変な目に会うのでは?
いろいろ書かせていただきましたが、僕は光秀=天海説を全否定するつもりはありません。ただ根拠が乏しすぎて、今の時点では光秀が天海だと断定できないのですね。
※ 参考文献
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