(この記事は2022年、7月8日に加筆修正をしました)
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前編

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中篇

こんにちは。今日も楽しくいきましょう。今日で吉屋潤(よしや じゅん)さんのお話はおしまいです。

1 挫折ざせつ
 吉屋さんとパティ・キムさんは世界各地でコンサートを開きました。しかし吉屋さんは自分のサックスのうで限界げんかいを感じていました。ハワイ公演を終えたあと、おくさんのパティ・キムさんへニューヨークで音楽の勉強をしたいから一緒いっしょについてきて欲しいと切り出したそうです。

しかし、パティさんは「突然そんな事をいわれても・・・」と首をたてにふらない。吉屋さんの気持ちも分かるが、自分の仕事も優先したい。そんな気持ちがパティさんにはあったそうです。結局、パティさんだけが帰国し、吉屋さんはアメリカに行きましたが、仕事もなく、酒と女とバクチにおぼれた生活を送っていました。そんなすさんだ生活が2年続いたそうです。

そこへやってきたのがパティ・キムさんとの離婚話りこんばなし。吉屋さんは奥さんだけでなく、最愛のむすめチョンアとも別れてしまいます・・・それは1973年の出来事でした。吉屋さんはアメリカ、パティさんは韓国と離れ離れの生活が続いたのです。

もっとも、パティ・キムさんとは離婚後もしばしば仕事をし、1973年には東京歌謡祭とうきょうかようさいに共演したそうですが。娘や奥さんと別れたさみしさをまぎらわせようと吉屋はがんばったがなかなかうまくいかない。韓国かんこくにもどり芸能プロダクションを作ったものの、これはと思う歌手は現れません。


そしてみなさん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw



2 ヘウニとの出会い そして挫折

 ある日、ヘウニさんという女性歌手が吉屋さんのプロダクションの門をたたきました。ヘウニさんのために吉屋さんは「あなたは知らないでしょうね」という曲を提供ていきょうしました。1976年(1975年?)その曲は大ヒット。ヘウニさんも大スターになりました。1977年は「貴方だけを愛して」でMBS音楽祭大賞を獲得かくとくしました。またへウニさんは日本にも来日されたことがあり、NHKの歌番組「歌謡パレード」にもご出演されました。

私生活が充実してくると、急に欲がでてきます。音楽カフェや料亭りょうていを開いたり、音楽著作権保護運動おんがくちょさくけんほごうんどう、1988年のソウルオリンピックの音楽監督かんこくなど吉屋さんはいろいろやりました。(オリンピックの時に作った曲が「朝の国から」)この「朝の国から」はキム・ヨンジャさんとう歌手がお歌いになりました。


1982年に最愛の母を失うという悲しみもありましたが、ヨンランという女性と再婚さいこん,し、アンリという娘ももうけました。吉屋さんに再び幸せがやってきました。だが、世の中なかなかうまくいかないものでして・・・

80年代に娘の名前を付けたアンリ・ミュージックという音楽関係の会社を設立しましたが、著作権保護運動などハードスケジュールで、なかなかアンリ・ミュージックの仕事に手が回らない。しかも放漫経営ほうまんけいえい(※1)がたたって、アンリ・ミュージックは多額な不渡ふわたりを出し倒産、自身が経営していた料亭りょうていも音楽カフェも閉めてしまいました。


僕の父親もそうだったなあ〜自営業やっていたのですが、やはり放漫経営がたたり多額な借金をかかえ、僕らが長年住みなれた家を手放す羽目になったっけ・・・

吉屋さんと親しかった日本人ミュージシャンは「潤ちゃんは思ったらすぐっ走る。華々はなばなしいといえば華々しい。音楽もそう。すべてそう。」と述べられました。吉屋さんのその性格が長所でも欠点でもあったのでしょう。でも、僕は好きだなあ、吉屋潤さんみたいな人。

韓国かんこくからげるように、吉屋さんは日本にもどりましたが、骨髄こつずいガンになってしまいます。長く続いた闘病生活とうびょうせいかつ。その間ラストコンサートも開きました。コンサート会場にはパティ・キムさんや田端義夫(たばたよしお)さんをはじめ仲間たちもはせ参じました。そして、1995年3月17日、ソウルの江東聖心病院にて亡くなりました。享年きょうねん68さい日韓にっかんをめまぐるしくかけ回った人生でしたが、彼が日本や韓国の音楽界に多大な功績を残したことはまちがいありません。


3 離別

吉屋潤さんの名曲中の名曲「離別」(イビョル) 。1972年に作られ1973年に発表されました。パティさんと結婚後、海外に演奏旅行に立ち、ジャズの勉強のため単身ニューヨークに渡った吉屋さんが、韓国に帰国した妻への思いを込めて制作した曲です。この曲を聴くと、望郷より愛する人との別れを感じます。吉屋さんのこの時の心情を歌ったものだと僕は思ったのですが、歌詞に「山超え、遠くに離れても」とあるように、望郷の思いを歌った歌とも解釈できます。「山超え」・「海の彼方」などの歌詞の表現から故郷の北朝鮮への望郷も含まれているとの解釈もあるとか。ちなみにパティさんは、「山越え、遠くに離れても」という歌詞が1番お好きだそうです。山は韓国語で「サン」、海を「パダ」というそうです。

この歌はいろいろな方が歌われております。みな素晴らしくお上手なのですが、やはりパティ・キムさんの歌唱にはかないません。元の奥さまということもありますが、抜群ばつぐんの歌唱力と豊富な人生経験に裏付けされたパティさんの「離別」は素晴らしいです。なにしろ、パティ・キムさんは韓国の美空ひばりさんといわれているくらいですから。平成元年(1989年)のNHKの「歌謡パレード」でも「紅白歌合戦」にもパティ・キムさんはご出演され、この歌を歌われました。「歌謡パレード」では日本語で、司会の杉浦圭子アナウンサーとお話しされ、この歌は「彼と私の心が入った曲です」とはにかみながら語られておりました。

「歌謡パレード」や「紅白」では、はじめは韓国語で、それから日本語で歌いました。その時のパティさんの目頭になみだがうかんでいました。別れたとはいえ愛し続けた吉屋潤さんの事が脳裏にうかんだのかもしれません。

吉屋さんもパティさんが紅白で歌っている姿をブラウン管でみて、おもわず恥ずかしくなったとか。この平成元年の紅白にはキム・ヨンジャさんも出演され、やはり吉屋さんがつくられた「朝の国から」をお歌いになりました。ある意味1989年の紅白は吉屋さんにとっても、吉屋さんファンにとっても印象深い紅白だったのではないでしょうか。

そして、吉屋潤さんのお葬式そうしきに参列したパティさんは泣いて、泣いて、泣きぬれたそうな。





※1 会社の使用者側が会社を運営・管理する能力が無い、会社を私物化する等により、企業経営を混乱させること。

※ 参考文献



朝の国から
キム・ヨンジャ
バップ
2007-11-21