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こんばんは。今日は昨日の続き、吉屋潤(よしや じゅん)さんのお話の2回目です。昨日の記事は。今日は
吉屋潤さんが日本で名をあげ、パティ・キムさんと結婚するところまでお話をします。

1 恩師との出会い そして吉屋潤と名乗るように
 戦争で廃墟はいきょになった東京で吉屋さんは小沢秀夫(おざわひでお)さんを探しました。あちこち回って、やっと吉屋さんは小沢秀夫さんに出会います。

小沢さんは吉屋さんのかたたたいて「よく私を探せたね」と吉屋さんとの出会いを心から喜びました。小沢さんは吉屋さんにサックスをやることと、田端義夫(たばたよしお)さん伴奏楽団ばんそうがくだんに入る事をすすめました。

しかし、田端義夫さんといえば演歌歌手えんかかしゅ。ジャズをやりたいのに演歌をやれとはジャンルちがいです。吉屋さんは初めは「演歌なんか歌ってええんか」って仰ったか知りませんがw、あまり気乗りしませんでした。でも、結局小沢さんの言うことをすなおに従いました。田端義夫さんの伴奏楽団には2年間がんばって、その間に吉屋さんはサックスのうでをみがく事が出来ました。

ちなみに、吉屋潤と名乗るようになったのもこのころ。それまでは崔 致蓮淵船АΕ船献絅鵝砲般松茲辰討い泙靴拭5伐綾瓩量症佞運討肋沢秀夫さん。谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうと小説家の吉屋信子よしやのぶこの二人の名前からとったそうです。

吉屋潤さんが日本に来てから二年。小沢さんは吉屋さんを事務室に呼んで、「この日を待っていたんだよ。今の君ならバンドマスターが出来るね」と言って吉屋さんのバンド独立を認めてくれました。「吉屋潤とザ・クルー・キャッツ」の誕生です。

2 日本で活躍した吉屋潤

 吉屋潤さんのバンドはクラブ専属バンドから始まったのですが、次第にコンサートまで開けるようになり、日本のジャズ界の人気者となりました。当時の吉屋さんは羽振はぶりもよく、いつも服のポケットに大金をめ込み、後輩達こうはいたちに食事をごちそうをしたそうです。面倒見めんどうみが良かったのでしょう。一方でお金にあまり細かくなかったから、かせいだお金を持ちげされた事もあったとか。でも僕はこういう人、大好きです。マジで仲良くしたいくらい。

それと吉屋潤さんについて書かれた本には吉屋さんは黒い交際もあったと批判的な論調で書かれていました。 けれど吉屋さんに限らず、黒い交際がある芸能人やスポーツ関係者は結構いたみたいです。今はコンプライアンスが叫ばれる時代になって、いろいろやかましくなったせいか、聞かなくなりました。でも、少なくとも昭和の昔はそうでした。ボディーガードになってもらったり、スキャンダルをもみけしてもらったり、仕事の面でバックアップしてもらったり、昭和の昔は芸能人のそういう人たちの関係はwinwinの関係で、そんなにヤマシイ話ではなかったし、昔は今みたいにやかましくなかったのです。むしろ、変に正義感を振りかざす現代は息苦しくて仕方がない。

黒い交際といえば、それが原因で紅白落選した歌手も何人かいらっしゃいました。逆に「自分もこのような暴力団との仕事上の付き合いはある。歌手ならこのような付き合いは避けられない」と紅白を辞退された歌手もいらっしゃいました。演出家の蜷川幸雄さんは、「一芸能番組で道徳を振りかざすNHKの姿勢は納得できない」といって憤り、その年の紅白の審査員の話を蹴られたといいます。かっこいいですね。

日本だけでなく、アメリカでもフランク・シナトラという歌手がマフィアとの関係性をたびたびウワサされました。暴力団と関わる事は本来よい事ではないのかもしれませんが、芸能界というきびしい社会で食っていくためにはキレイごとばかり言っていられないのでしょう。


3 韓国と日本を行き来して
 1959年、吉屋潤さんはいちど韓国に帰りました。吉屋さんがみた韓国の町並みは、目をおおいたくなるようなひどい光景でした。それはバラックが立ち並ぶ廃墟はいきょでした。1950年におきた朝鮮戦争のつめあとが残っていたのです・・

そんな暗い状況の中、吉屋さんは韓国の音楽業界を盛り上げたいと思いましたが、ワケがあって再び日本にもどりました。さっそく「クルー・キャッツ」の再結成をしましたが、そのころの日本はジャズ人気も下火でした。結局「クルーキャッツ」を解散してしまいます。

クルー・キャッツを解散した吉屋潤さんですが、サックスが出来たので、あちこちでお呼びがかかりました。「芸は身を助く」ですね。『サヨナラ札幌さっぽろ』という曲も作りました。しかし、クルー・キャッツ時代の様な栄光はもどってきません・・・

そこへ吉屋さんに母が危篤きとくだという知らせが入り、吉屋さんはすぐに帰国しました。「オモニ(※1)をずっと守っていくよ!」とやせ細った母親を強くきしめたとか。

やがて、吉屋さんは大物歌手のパティ・キムさんと出会います。二人はテレビ番組で何度か共演をしました。吉屋さんのためにパティ・キムさんに『四月が去れば』という歌を提供しました。吉屋さんとパティ・キムさんは番組では必ず「四月が去れば」を歌とサックスでデュエットしました。「二人の仲はあやしい」とマスコミは書きたてたが、二人はその気になっていました。それから二人はめでたく結婚けっこん

二人の間に、女の子もさずかります。その時につくった歌が「1990年」です。

しかしラブラブだった二人の仲は次第にこじれていきます。吉屋さんは仕事としょうして夜の街へ遊びにいくようになりました。その後、吉屋潤さんはどうなったか?続きはこちらをどうぞ。


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※1 韓国語かんこくごで「お母さん」という意味


海程
吉屋潤
バップ
2006-11-22


(吉屋潤さんのCD)

パティ・キム - ゴールデンベスト(韓国盤)
パティ・キム
巨星レコード
2009-06-03


(パティ・キムさんのCD)


※参考文献