history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

仏教系の宗教団体である立正佼成会とキリスト教系で今問題になっている統一教会が関係あるってネットで拡散されているみたいですね。下手すりゃ、統一教会と立正佼成会は同じ教団だってデマまで広まるほど。ネットの情報ですからね。いまいち信用できないんですよ。


立正佼成会と統一教会が関係あるって根拠は、元立正佼成会の幹部だった久保木修己が関係しているとか。久保木修己は、立正佼成会の開祖の庭野日敬氏の秘書を務めた人物で、立正佼成会の外部企業である立花産業の社長も歴任したほどの人物。誠実な人柄だったようで、彼を慕う人も多かったそうです。その久保木氏は、統一教会の教えに感銘を受けて、統一教会に入会し、そのまま統一教会の幹部になったと。だから、久保木氏経由で、立正佼成会は統一教会と交流があるとネットで書かれているのです。

しかし、久保木修巳のプロフィールを見ると、立正佼成会を脱会したとあります。脱会とは重い言葉で、完全に縁を切ったってことです。退会とか、そんな生やさしいもんじゃない。脱会という言葉からして、円満な形で久保木氏が立正佼成会をやめたとは思えないし、関係がつづいているとはおもえない。したがいまして立正佼成会も統一とは関係ないと思います。

いきさつを調べると、1962年に久保木は統一教会の牧師を、庭野に引き合わせたといいます。おそらく久保木と言う人は純粋な人で騙されたのかもしれない。それで、統一教会は良い宗教だから庭野さんもそうですかって勧めたんだろうなあ、たぶん。

その統一教会の牧師は庭野氏に40日修練会の提案をし、佼成会信者を参加させてほしいと申し出たのですね。すると庭野氏は、それを承諾。庭野氏は寛大な人だったようで、かつ世界の平和を本気で思っていた。そのためには自分たちの宗教団体だけでなく、そのほかの宗教との交流も必要だと考えていたのだとおもう。事実、立正佼成会は基本的に多宗派・他宗教にたいしては寛容な態度で、天理教だとか、PL教団とか、伝統的な日蓮宗や曹洞宗だとか、いろいろな宗教団体との連携を模索しているそうです。

世界宗教者平和会議(WCRP)といいまして、世界中の宗教者、キリスト教だとかイスラム教だとか世界中の宗教者が集まり平和について語り合う集まりが行われているのですが、その旗振り役が庭野日敬氏だったそうです。この会議にはマザーテレサも参加したことがあるとのこと。そうした庭野氏の功績が認められ、宗教者のノーベル賞、1979年にテンプルトン賞を受賞したのですね。日本人でテンプルトン賞を受賞したのは2023年現在でも庭野日敬氏、ただおひとりです。






すみません、少し話が飛びましたね。庭野氏は立正佼成会の会員から40名を選び、その修練会に信者さんを参加させたのですね。しかし、この動きは立正佼成会の内部で警戒を呼び、すぐに統一教会の修練会に行くことは禁止する運びになったのですね。それから立正佼成会と統一教会との関係が途絶えたと。

久保木氏が立正佼成会を脱会したのはそのすぐ後だったそうです。しかし、彼を慕う立正佼成会の信者さんも少なくなく、久保木氏とともに修練会に参加した信者たちの一部も統一教会に流れたと。



しかも、久保木氏がまだ立正佼成会にいた当初は、統一教会がこれほど問題にならなかった時代ですからね。なにしろ、日本統一教会が発足したのが1959年ですから。教団系の学生団体である原理研究会による家庭崩壊、学業放棄が社会問題となったのが1965年以降。久保木氏が庭野氏に統一教会の牧師を紹介したのが1962年ですから、あとの話ですね。そして、1980年代になって統一の霊感商法が問題になって、朝日新聞社や『週刊文春』によって大々的な批判キャンペーンが展開されたほどでした。庭野氏もまさか統一がそれほど酷い宗教団体とは初めは思わなかったのかもしれない。それが、後で実情がわかったのかなって。







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(いづれも鼠小僧の墓)

鼠小僧ねずみこぞうってご存じでしょうか。歌舞伎の題材にもなりました。小柄で神出鬼没な姿から、鼠小僧というあだ名がついたのですね。鼠小僧はお金持ちから金を盗み、盗んだ金を貧しい人々に配ったと。しかし、それは作り話。

鼠小僧はどこにでもいる普通の盗賊でした。貧しい人にお金なんか配っておりません。私利私欲のために盗みを働いていたのです。鼠小僧もはじめのころは、とび職として真面目に働いていたのですが、文政6年(1823)あたりから盗賊をやるようになったのです。鼠小僧がターゲットにしたのは武家屋敷や富裕層ばかり。捕まるまで90回以上も盗みを働き、盗んだ金額は約3000両。いまでいえば6000万円もしたといいます。それでは鼠小僧は盗んだ金を何に使ったかと言えば酒と賭博と女だそうです。盗賊家業をはじめたのも賭博で身を崩してしまったからだとか。

鼠小僧が富裕層や武家をターゲットにしたのは、貧しい人たちを苦しめる権力者たちを懲らしめるためではなく、単純に金があるから。昔からよく言われております。泥棒はお金があるところに入っていく。お金をもっているかどうか独特の嗅覚でわかると。わざわざ金のない家に忍びこんでも意味がないのです。現在だったら家宅侵入罪で訴えられるだけです。

まして武家はメンツを重んじることが多く、被害を大っぴらに訴えることはしなかったのですね。そうなると犯行がばれにくい。鼠小僧からすれば武家は恰好のターゲットだったのです。

鼠小僧は結局捕まって処刑されてしまいますが、亡くなった時鼠小僧はお金が全然残ってなかったのです。ギャンブルと女で使い果たしのが真相ですが、なぜか貧しい人たちに分け与えたから一文なしになったという伝説が生まれたのですね。

本能寺の変の直後、徳川家康は堺におりました。織田信長にまぬかれて堺に居たのですが、その信長が明智光秀に討たれてしまいました。当然、信長と同盟関係にあった家康は大ピンチです。うかうかしていては明智のものに命を取られてしまう。しかし、従う家臣は40人ほど。明智の軍勢と戦うといっても無理な話。それで、家康は堺から自国の三河に逃げ延びようとしたのです。明智の目をごまかして、無事に三河にたどり着くには、どうしたらよいか。それは危険な山道も通らなくてはなりません。その時、活躍したのが伊賀忍者の服部半蔵。服部は仲間の伊賀の忍びのものに、家康を逃避行に協力するように命令。そうして、甲賀から伊賀の山中を通って伊賀を抜け、船で海を渡って無事三河にたどりついたと。その時の功績を買われ、服部半蔵は家康にやとわれ組頭となったといわれております。

しかし、その話もどうも真相は違うみたいなのです。まず服部半蔵についてですが、彼は伊賀越えの時すでに40代前後でしたが、実は父親の代から伊賀から岡崎へ移住した後に生まれ、つまり半蔵は岡崎生まれの岡崎育ち。従って伊賀の土地カンもなければ、伊賀に知人もいるわけじゃないのです。だから、服部半蔵が伊賀の仲間を集めてなんて話は無理があると。仮に家康を道案内せよといわれても、見知らぬ土地を案内するのは無理。ましてやガイドブックだとか、グーグルマップだとか便利なアプリなんてない時代ですからね。伊賀の忍者たちが伊賀越えに協力したというけれど、果たして半蔵の頼みとはいえ、どこまで協力してくれるかどうか。なにしろ、家康は信長の同盟相手。伊賀の人にとって信長は憎き敵。天正伊賀の乱で伊賀は信長のせいで散々な目にあいましたからね。そんな憎き敵の同盟相手なんかに協力できるか、むしろ殺してやりたいと思う人のほうが多かったのではないかと。

伊賀越えで家康の逃亡劇に積極的に協力したのは、むしろ甲賀の忍者たちだといわれております。のちに甲賀のものたち20人近くが旗本として採用されたといいます。伊賀国から採用されたのは10人に満たぬといいますから、それくらい家康は甲賀のものたちに感謝しているのだなって。

また、家康が通ったルートも実際はよくわかっていないのですね。甲賀から伊賀の山中を渡って伊賀に抜けと言いますが、その家康が通ったルートを示す一次資料がまだ見つかっていないそうですね。また、本能寺の変が起こった直後、伊賀国で大規模な一揆が起こり、北伊賀にいた仁木氏(※1)を攻撃したといいます。そんなところに信長の盟友の家康が訪れたら殺されてしまう可能性もあり、下手すりゃ家康は伊賀の国を避けた可能性もある。


※1 伊賀国の守護。ただし伊賀国全体を支配していたわけじゃない。信長側に近い。

忍者が活動するうえで必要なものは何だと思いますか?敵の情報を入手することです。もちろん、ただ情報を入手するだけでは意味がありません。その敵の情報を正確にクライアントに伝える必要があるのですね。伝えるといいましても、カメラなりレコーダーましてネットなどなかった時代。それじゃあ、耳にした情報や得た情報をメモして報告すれば済むことじゃんと思いますが、メモを取っている間に、敵に見つかってしまうこともある。

たとえば、くノ一という女性の忍者がいるのですが、彼女たちは大名の奥女中、商家であれば下女として忍び込むのですね。そうやってスパイ活動をするのですが、いちいちメモなんてしていたら、大名なり商家の旦那から何やっているんだって怪しまれますよね。

あるいはそうしたメモが関所なので発見されたらもとも子もありません。そこで手にした情報をしっかり記憶しておく必要が出てきます。そうして忍者たちは独自の記憶術を編み出したといわれております。しかし、記憶するといいましても、覚えるのは大変です。特に数字は大変ですね。

まず忍者は覚えなくてはいけないことを何かに置き換えて記憶する連想記憶術を使いました。覚えにくい数字は人間の身体や食べ物に置き換えたとか。たとえば1がいも、2が煮梅にうめ、3がさんしょう、4がシイタケという具合に。数字を覚えるのはいつの時代も大変ですが、こうした身近なものに置き換えて記憶をしたのですね。なるほど、これは現代でも語学や資格の勉強でも応用できますね。

さらに絶対忘れてはならないことは、不忘術ふぼうじゅつという秘術を用いました。これは大切なことを思いながら、自らの身体に傷をつけるという記憶術。たとえば、何か覚えたいことを覚えているときに、小刀で自分の指を傷つけてみるとか。

普通の記憶は脳の海馬という部分に記憶されるそうです。しかし恐怖をともなう記憶は大脳にある偏桃体へんとうたいと呼ばれる部分に記憶されるそうです。こくした偏桃体の働きによって恐怖の記憶というのはいつまでも離れないというのです。人間って基本的に忘れる生き物ですが、なぜか恐怖経験というのはいつまでも残っているものなのですね。いじめられた経験とかパワハラを受けた経験とか。いわばトラウマですね。忍者は自傷行為をやって、そのときついた傷をみて、「あ、あの時、あの殿様はこんなことを言っていたな」って記憶がよみがえってくると。これはかなり強引なやり方ですね。下手すりゃ恐怖体験だけが記憶に残り肝心なことを忘れてしまう危険性もあるし、実際にこのやり方でどれだけ覚えられたか疑問ですが、ともあれ忍者は自分のミッションを成し遂げるためには、自ら傷つけることもいとわなかったのですね。

Amygdala

(赤い部分が偏桃体)

参考文献
イラスト図解 忍者
日東書院本社
2012-11-30

神隠しってご存じですか。現在ではきかなくなりましたが、大昔はよくあったのですね。人間が突如、姿を消してしまうのです。だいたい消えるのは子供が多かったようです。人間が突然消えるなんて気持ちの悪い話ですよね。 SFとかだと、神隠しとは、人間が四次元の世界に入ったしまった現象だという話になりますが、僕は神隠しはそうしたオカルトまがいな話ではないと思います。

神隠しの原因として考えられるのは、おそらく事故が一番多いんじゃないかと思います。昔は街灯もなかったし、道も舗装されておらず、特に夜出歩くのは本当に危険だったと思います。今みたいに捜索隊もいないし。あとは迷子だったり、誘拐事件だったり、はたまた自殺だったり。下手すりゃ殺人事件の可能性だってある。

漫画の話なのですが、『探偵学園Q』という漫画に、『神隠し村殺人事件』という話があって、ある村で村人たちが申し合わせたように人を殺してしまうのですね。僕もフィクションとはわかっていても、もしかしたら、神隠しの話も今でいう殺人事件もまじっていたんじゃないかって思いましたもん。

【極!合本シリーズ】 探偵学園Q1巻
さとうふみや
フロンティアNEXT
2019-08-05





それとネットで調べて分かったのですが、神隠しに逢いやすい人は、知的障害の子供と妊娠・出産などで精神的に不安定な女性が多かったといいます。精神的に不安定な女性は蒸発か、自殺かそんなところかなと思います。で、知的障害の子供が多かったといいますが、これはあまり言いたくないのですが、殺されたのではないかと。

昔の農村はよくも悪くも共同社会。村人たちが助け合ったといえば聞こえはいいですが、逆に村の秩序を乱したとか、その村の実力者の逆鱗に触れた人物がひどい目にあうのです。村八分という言葉がありますが、村八分とは村民全体が申し合わせて、その家と絶交することです。 「はちぶ」については、火事に逢った時と葬式ぐらいは村人たちは協力してやるが、あとは無視という、一種のイジメです。

そして発達障害を持った子供を養う余裕がないという理由で、村人もしくは親が殺してしまう。まして生活保護はもとより児童福祉法も発達障害保護法もなかった時代でしたからね。子供が突然失踪してしまったら、いまだったらワイドショーものの大騒ぎになりますが、江戸ないし明治の昔なら、あの子は神隠しに逢ったのだなでおしまい。

まして昔は、障碍者は仏罰、つまり前世の悪行の報いを受けたものとみなされ、社会から疎外されていたといいますからね。そういった障碍者を見世物として金をとる施設、いわゆる見世物小屋なんてあったくらいですから。障碍者は現在以上に差別されていたのです。

そんな残酷な風習が昔の日本の農村であったのではなかって僕は考えております。

ちなみに人間が失踪した事件は、日本のみならず世界のあちこちで起こっていたのです。たとえば、ハーメルンの笛吹き男のお話。あれは童話ではなく、本当にあった失踪事件なのですね。1284年6月26日に生じたと推定される集団失踪事件なのです。ハーメルンの町に訪れた一人の男が130人もの子供たちを連れてどこかへ消えていったと。あと、1939年、中国で兵士たち3000人がいっぺんに姿を消した失踪事件。この中国兵失踪事件を僕は『ドラえもん のび太の日本誕生』で知りました。当時、子供だった僕は本当かなって思っていたのですが、ネットで調べたら本当にあった事件で僕も驚きましたね。そんなことがあるんだって。ハーメルンのお話と中国兵失踪事件につきましては、また別の機会にお話ししようかなと。




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