History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)




映画『峠』をご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。僕も見ました。感動しました。幕末もので、主人公は越後の長岡藩の河井継之助。河井役を役所広司さんが演じられました。これぞ男だと思いました。しかし、一方で主戦論者で、新政府軍と戦うことを選んだのですね。そのために長岡藩で多くの犠牲者が出たんですね。河井は英雄と言う意見と、長岡の町を焼け野原にし、民を苦しめた大悪人だという意見に分かれ賛否両論サンピリョウロン

まず河井の評価できる点は「民は国の本 は民の雇い」と言う書を書いたほど、民こそが大事で、役人つまり武士は民の雇われ人にすぎないという考え方を持っていたこと。

河井継之助は若い頃から勉学に励んだ人物で、中国の古典にも通じていたのですね。特に彼がのめり込んだのが陽明学。河井が17歳の頃「十七 天に誓いて 輔国ほこくに擬す」と誓ったほどで、国のために尽くそうと河井は思ったのでしょうね。その河井がそう思ったのは藩の危機的な財政赤字にありました。藩の再建を河井は考えたのです。河井は意見書を書き、その意見書が長岡藩主、牧野忠雄の目にとまり、そして河井は藩の役職を与えられるようになったのです。河井は重臣たちの会議に参加し、そこでも重臣たちに面倒向かって批判したものだから、重臣たちは激怒。また河井に長岡藩藩主の若様の教育係をしてくれと頼まれたが、それを河井は拒否。筋を通す人物だったのですね。

一方で河井は基本的に、この戦は勝つか負けるか関係ない、最後は武士らしく潔く死のうと言う考え方なんですね。男の美学としてはかっこいいが、それを民百姓まで巻き込むのはどうかと言う見方もできるのですね。厳しい見方ですが、道徳とか正義と、政治は別物。道徳や正義と言うのは心情的に美しければそれで良いが、政治はあくまで結果責任。どんなに道徳的に素晴らしくても、実際の政治となると成果が問われ、成果が挙げられなくても被害は最小限に抑えなくてはならない。新政府軍に一旦は恭順して、政権の中に入りその中で実権を握る選択を取れば、民百姓を犠牲にせずにすんだかもしれないのに、河井はそれができなかったのですね。太平洋戦争もそうだったなあ。最後まで戦い抜いて日本人が滅びようと、後々日本人は誇り高い民族だったと語られると。しかし、その考えは多くの国民の命を犠牲にしたと言う点では間違っているのですね。


そんな河井も一旦は長岡藩を離れますが、やがてその行動力を買われ、河井は郡奉行に抜擢バッテキされます。信濃川の治水工事をして米の増産に成功、信濃川の通行税を廃止し、人の往来をしやすくし流通の促進、商業の規制緩和など経済を発展させ、長岡藩は2年でおよそ10万両を蓄えるようになったのです。

しかし、長岡藩財政再建も束の間、世の中は幕末という激動の時代。大政奉還をしたにもかかわらず、徳川と新政府は戦をしてしまうのです。このままでは長岡藩も戦乱に巻き込まれると思い、河井は武器を買い集めます。河井は新政府軍と戦うためにガトリング砲を2台買ったのですね。ガトリング砲は一台3000両。2台で6000両。例えば、一万石の小さい藩の年収は4000両ですから、ガトリング藩は小さい藩の年収ではとても代えない代物でした。長岡藩は7万4000石あったから、まだ買えたのですしょうね。

新政府軍は破竹の勢いで各藩を恭順させ、長岡藩にも降伏を進めます。そして軍資金を3万両差し出せと命じます。長岡藩の重役たちの意見は割れます。恭順か、交戦か、意見はまとまらず。苛立つ新政府軍は長岡藩に迫ってきます。そんな藩の危機の中、河井は家老上席兼軍事総督に就任。事実上の最高責任者になったのです。そして交戦でもない、恭順でもない新たな道を探ります。新政府にも幕府にもつかず、武装をしたまま中立を保つと言う立場を取ったのです。いわば、スイスのような永世中立国の立場を取ったのですね。スイスは中立国と言いましても軍隊も持っていますし、徴兵制もとっていますし。

しかし、どっちつかずな長岡藩の態度に新政府軍はイラつくばかり。そして河井は嘆願書を携え、新政府軍のところに赴きました。河井は、長岡藩中立だけでなく、争いをやめ、日本は今で言う連邦国家みたいな国になって日本中が豊かになるべきだと訴えました。しかし新政府軍は軍備を揃えるための時間稼ぎだとしか思わず、わずか三十分で新政府軍は立ち去り、嘆願書すら受け取ってくれなかったのです。それでも河井は諦めずに新政府軍の本陣に訪れましたが門前拒否。他藩にも助けを求めましたが結局ダメ。とうとう河井は新政府軍と戦う道を選んだのです。しかし長岡藩兵1300人に対し、新政府軍は4000人。数の上では不利です。それで河井は会津藩など東北の各藩と同盟を結びます。そして戦は始まりました。

戦では長岡城に陣取って、河井は自らガトリング砲を操って応戦をしたと言います。しかし、河井たちの奮戦も虚しく、長岡城は落城。それでも長岡藩兵たちは今度は地の利をいかし、ゲリラ戦を始めます。そして長岡城奪還を目指します。城の裏手にある八丁沖という沼地を6時間もかかって渡りきり、城を襲ったのです。この八丁沖は広い沼地で大蛇が出るというウワサもあったほど危険な沼地だったのです。

まさか沼地から兵士たちが襲ってくるとは夢にも思わなかった新政府軍たち。城を守っていた新政府軍2500に対し、河井の兵わずか700。河井たちの不意をついた攻撃に新政府軍は敗走。再び長岡城の奪還に成功したのです。しかし、この戦いで河井は左足に銃撃を受けたのです。河井重症に、長岡藩の士気はいっきに低下。新政府軍は反撃にでて、再び城は新政府軍の手に落ちたのです。戦は三ヶ月にも渡り長岡の街は焼け野原と化したのです。

河井は会津に向かう途中に亡くなります。わずか42歳の生涯でした。賊軍の将として世をさって島田tのです。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

と言う句を河井は残しました。


※ この記事はNHK「英雄たちの選択」を参考にして書きました。


1945年8月15日。この日に戦争が終わりました。日本は神国だ、戦争に負けぬと誰しもが信じたのですね。しかし、実際は違った。結局、日本は負けてしまい、本土は焼け野原になりました。住む家を失った人もたくさんいたのですね。僕の祖父母もそうで、家は空襲で燃えてしまったと。祖母と子供たち(僕の父や親戚シンセキのおばさん)は疎開ソカイをしていたから無事だったのですが、祖父はなぜか一人東京に残ったそうです。祖父は体が弱かったので戦地には行かなかったのですが、空襲が激しかった東京に一人のこされ、さぞコワい思いをしたろうな。祖母は夫を残して子供と共に安全なところに逃げていたのですね。おばあちゃん、ひどいねえ、おじいちゃんがかわいそうだよ。まあ、僕の祖母はすげえきつい性格で鬼嫁でしたからね。僕にとっては優しいおばあちゃんでしたが、母には結構辛く当たっていたし、祖父のことも年中怒鳴っていたのを子供心に覚えております。ともあれ、家は焼かれたものの、命だけは助かったのが不幸中の幸いでした。

人々は敗戦国となった現実に打ちのめされ、食糧不足は深刻で毎日のように餓死者ガシシャが出たといいます。まさに『火垂ホタるの墓』の世界ですね。戦災孤児コジも12万人以上、街頭ガイトウには浮浪児フロウジもあふれたといいます。僕の母は昭和17年生まれですが、自分が小学生のころ、戦争で両親ともに亡くなった同級生が何人かいたと話してましたっけ。

そんなひどい状況の中で、連合国軍の兵士がある日本人に話しかけたところ、その日本人はガソリンに火がついたようにまくし立てたのです。それは戦争へのうらみ言。

訳もわからず、さんざ引き回され、訳もわからぬうちに、丸裸マルハダカで放り出され、どうしていいかもわからない。


そして、東條英機のことも呼び捨てにして、頭ごなしに批判したと。同じことを考えている人は少なくなかったことでしょう。実際、戦時中に兵隊たちが「いっそのこと、トルーマンと東條英機を狭い部屋に押し込んで、ケンカさせよう。そして俺ら兵隊たちがそれを高みの見物するのだ」と言ったくらい。今でこそ東條英機を神格化する人もいますが、戦時中や戦後まもない頃は本当に評判悪かったのですよ。

また、戦死した男たちに代わって女たちは働いたのですね。戦争で家族や財産を失って生活に困ってやむを得なく売春に従事することを余儀ヨギなくされた女性が多かったのです。在日米軍将兵を相手にした、いわゆるパンパンです。しかし、パンパン狩りといって米兵にひどいことをされた者も少なくなかったと言います。映画「人間の証明」でも米兵に女性が暴行され子供まで生まされた描写が出てきます。松本清張の『ゼロの焦点』でもパンパンが出てくるそうですね。
僕の知り合いのおばあちゃん(祖母の友達)は売春こそはしなかったもののGHQの兵士たちが出入りするバーで働いたといいます。

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そんな女性たちの心情を歌ったのが、「星の流れに」。昭和22年(1947)に作られました。この曲を作詞したのは清水みのる。作曲は利根一郎。清水は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだそうです。もと従軍看護婦ジュウグンカンゴフ」だった彼女は、奉天ホウテンから東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身をなげいていたといいます。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にしたのです。こみ上げてくるいきどおりをたたきつけて、戦争への告発コクハツ歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲したと言います。

初め、この曲を淡谷のり子に歌ってもらいたかったようですが、彼女は拒否。、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と。そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池章子に吹き込みを依頼したと言います。彼女は歌の心をよく把握はあくし、戦争の犠牲ギセイになった女の無限のかなしみを切々とした感覚で歌い上げたのです。菊池章子の淡々とした歌い方がかえって当時の女性たちの苦しみが伝わってくるのですね。

完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であったそうです。ところがGHQから「日本人の反米感情をあおるおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となったそうです。確かに、女性たちが苦労する羽目になったのは戦時中の日本政府にも責任があるかもしれないが、空爆を行ったアメリカの責任大ですからね。

ともあれ『星の流れに』は大ヒット。それこそ大人から子供まで口ずさんだそうです。この曲を聞いて自殺を思いとどまった人もいたといいます。歌の力はすごいですね。しかし、この大ヒット曲も今では知っている人もだんだん減ってきて、今の10代、20代の若い人は知らないだろうなって。知っていたとしても極めて少数だろう。どんなに良い曲でも後世に残すのは難しいのだなって。僕は懐メロ番組よく見ていたし、母がときどき口ずさんでいたから、この曲を知っています。ただ、この曲が生まれた背景を知ったのは、ごく最近のことです。



※この記事はウィキペディアを参考にして書きました。

赤穂浪士は吉良邸討ち入りをして、最後は切腹をしてしまうのですが、その間、4つの大名家にお預けになるのですね。寺坂吉右衛門を除く四十六人がお預け入れになったのです。長府藩毛利家、松山藩松平家、岡崎藩水野家、そして熊本藩細川家です。長府藩というのが出てきますが、これは長州藩とは別の藩です。一応長府藩は毛利家で長州藩の毛利家とは親戚なのですが。幕末、長府藩と長州藩は初めは対立するものの、のちに協力し倒幕運動に参加します。

細川家 大石内蔵助 堀部弥兵衛 吉田忠左衛 原宗右衛門など17名
松平家 大石主税 大高源五 不破数右衛門 堀部安兵衛など10名
毛利家 竹林唯七 杉野十平次 前原伊助 など10名
水野家 神崎与五郎 矢頭右衛門七 など9名



4家に分けることで、上杉家の仕返しを防ぐこともできたのですね。吉良上野介には息子の上杉綱憲がいて、綱憲が上杉家の養子となり家督を継いでいたのです。父を殺されたというので、仕返しに赤穂浪士たちを暗殺する可能性もあったのですね。それで幕府はお預け先の4家に「上杉がどう出るかわからないので、その覚悟で念入りに引き取るように」とお達しをしたのですね。浪士たちは4家に引き取られる前に、大目付の仙石久尚の屋敷に一旦預けられたとのですね。それから4家がそれぞれ浪士たちを引き取るのですが、その際、4家は藩士たちを仙石邸に派遣。その数千四百人。その引き取りは夕方から夜の間に行われたので、仙石邸の周りには多くの藩士たちが提灯を持っていて囲んでいたので、ある種のイルミネーションみたいな感じだったようです。そうして浪士たちはカゴに入れられ、各屋敷に運ばれたのです。実は4家は待遇が違ったのですね。

松平家と毛利家は罪人扱いで、特に毛利家は浪士をカゴで運ぶ際、錠がかけられ、さらにその錠にアミまでかけられた念の入れよう。まるで天下の大悪党扱い。狭い長屋に押し込められ、長屋の窓には板が突きつけられ、外が見えないようにしたと言います。家族に手紙を出すなんてもってのほか。毛利がここまでひどい扱いをしたのは、長府藩が残酷だったわけじゃありません。長府藩は小大名で幕府の機嫌を損ねたら大変ということで仕方なく冷遇したのです。

水野家は良くも悪くもないみたいな感じだったようです。

4家でいちばん待遇が良かったのは、細川家。浪士たちを藩主の細川綱利が自ら出迎えたのですね。他の藩では家老とか重臣が対応だったので、えらい違いですね。そして綱利は浪士たちを褒め称えたのですね。その忠義に感服したと。現代の価値観だと赤穂浪士は夜中に老人を襲ったテロリストでしょうけれど、この時代は武士道が生き残っていた時代。主君の敵討ちは悪いことではなかったのです。実際、徳川綱吉も浪士を処罰するか生かすかどうか悩んだのですね。天下の法を犯したのはまずいが、忠義を全うした浪士たちを殺すのは惜しいって。

さらに綱利は幕府の許しがあれば彼らを召抱えようとしたと言います。ずいぶん大胆ですよね。さらに細川家は浪士たちを長屋に押し込めたりせず、書院の広間二間をあてがえられ、新調した小袖、上帯、下帯まで与えられ、時どき取り替えてくれたと言います。しかも、家族に手紙まで出して良いとのこと。他の3家だったら考えられません。浪士たちの手紙を家族に届けたのは細川家家臣の堀内伝右衛門。彼が浪士たちの世話役をしたのです。彼は「幕府から咎めがあったら自分が切腹して責任を取るからなんでも言いつけてほしい」とまで言ってくれたそうです。堀内は浪士たちの行動に感服していたのですね。

食事の方もよくて藩主たちと同じ二汁五菜。贅を尽くしたものが出され、酒が飲めるものには酒を、飲めないものには甘酒を振る舞ったと言います。おやつや夜食のうどんまで出されたというから至りつくせり。他家は罪人扱いで粗末な料理だっただけにえらい違いです。ここまで至りつくせりやだったから、浪士たちはさぞ満足かと思いきや、一人不満を持っている人物がいました。

それは大石内蔵助でした。「もっと贅を尽くしたものを出せ!」と言った❓まさか、むしろ逆でした。内蔵助は長く浪人暮らしで粗末なものを食べていたので、逆に体が受け付けず、玄米やイワシなど質素なものにして欲しいと頼んだのです。しかし、藩主の命令で内蔵助の言い分は聞き入れられず、ますます贅沢な食事になったようです。また、内蔵助は大変な寒がりでした。寝るときは頭巾を被り、掛け布団に加え、こたつ布団までかけていたと言います。これは他の3家だったら、まず許されないでしょう。



実はこうした細川家の厚遇に影響されたのか、水野家や毛利家の浪士への待遇も変わりました。水野家は当初は浪士たちを長屋に押し込めていたのですが、江戸の三田にあった中屋敷に浪士たちを移したちを厚遇したのですね。三田といえば慶應義塾大学があるところですね。毛利家も浪士たちの待遇も改め、藩主との謁見の際には二汁五菜を与え、菓子、酒、火鉢なども供しました。


このように4家の待遇の違いから、庶民たちは狂歌を作りました。なんてたって庶民は赤穂浪士の味方でしたからね。

「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」

これは細川と水野は浪士たちを優遇したが、毛利と松平は冷たかったという皮肉がこめられております。実際、毛利は浪士たちを厚遇するようになったのですが、初めのイメージが悪かったせいで、後々まで悪く言われてしまったのですね。毛利家も気の毒だなって。

そして浪士たちが4つの家に預けられて一ヶ月、元禄16年2月3日夜、細川邸で数人の浪士たちは堀内伝右衛門に余興を見せたと言います。浪士たちは当時人気の元禄歌舞伎の真似事をしたと言います。それをみた堀内はニコニコと楽しんだと言います。浪士たちは、もうすぐ自分達の御沙汰が出る。おそらく自分達は処罰されるだろう。その前にお世話になった堀内殿にお礼をしたいと思ったのでしょうね。

そして翌日の2月4日。寺坂を除く四十六士は切腹。切腹というと現代人は怖いイメージがありますが、これは武士にとって名誉の死なんですね。そして、四十六人は細川、松平、毛利、水野各家にて切腹の儀が執り行われました。細川邸の庭で最初に切腹したのは大石内蔵助。畳3畳が敷かれた最高の格式で切腹することを許されたのです。大石の辞世の句が、

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

自分の本懐をとげ、思い残すことは何もない、今は晴れ晴れとした気持ちだという意味です。浪士たちの切腹を目の当たりにした堀内は「もう少し、浪士たちと時を過ごしたかった」とその死を惜しんだとか。細川家の邸跡には十七人が切腹した庭の一部が今も残されています。浪士たちの血で染まった庭を幕府の役人たちが清めようとしたところ、藩主細川綱利は「彼らは細川家の守り神である」と言ってその申し出を断ったと言います。

※この記事は「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。

前回の記事で、テニアン島のテニアンスクールの話をしましたが、その続きを。

「人と人が直接に知り合っていれば憎しみは生まれません。お互いの人間的な関係がない時に人は3万フィートの上空から平気で人々の上に爆弾を落とせてしまうのです。それがまさに戦争の悲劇なのです」

このセリフは爆撃機に乗り、日本本土を無差別爆撃を行った、ある兵士が語った言葉です。彼は命令されるまま、テニアン島にある基地を飛び出し、日本の都市部への爆撃を行いました。任務が終わってテニアン島に帰還して、爆撃機に乗っていた乗組員たちが、立ち寄ったのがテニアン島にあったテニアンスクール。テニアンスクールには日本人捕虜の子どもたちがたくさん。子どもたちの無邪気な笑顔を見て、兵士たちも心も和みます。そして一緒にスポーツをやったり、パーティーをやったり楽しんだといいます。爆撃で殺したのも、今目の前にいる子どもたちも同じ日本人。だからこそ、冒頭の言葉を述べた兵士は苦しんだのです。爆弾を落としている自分と子どもたちを可愛がっている自分の矛盾に苦しんだ兵士たちは少なくなかったのですね。さまざまな事情で戦争になってしまったけれど、同じ人間同士ってことですね。

今、ウクライナが大変なことになっておりますが、冒頭の兵士の言葉が響きますね。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

戦時中、日本は鬼畜米英のスローガンの元、敵性語ということ英語が使われなくなりました。野球であれば、「ストライク」を「よし一本」、「アウト」を「ひけ」という具合に。これは政府が国民に命じたわけではなく、マスコミのキャンペーンから始まって、それがいつの間にか英語を使っちゃいけない空気になったのですね。それは教育の場にも及び、学校の英語の授業のコマ数が減らてしまったのですね。エリートとか、海軍とか英語を普通に使っていたようですが、基本的には英語を使ったものは非国民扱いでした。

孫子に「敵を知り、己を知 れば百戦危うからず」という言葉があるように、戦争に勝ちたいのなら、相手のことを知る必要があります。外国語を学ぶということは、外国の文化や習慣などを学ぶことでもあり、相手を知ることが勝つためにも大事なのですが。

一方のアメリカの方は日本語を禁じるどころか、日本の文化を簡単にまとめたドキュメンタリー映画を作ったり、日本語の研究をしていたというのです。アメリカ海軍は対日諜報戦に勝つために、日本語学校まで作って、日本語を操る情報士官、いわばスパイのような士官を育成しました。そうした人たちを日本語情報士官と言いました。今でこそ日本語がペラペラなアメリカ人は珍しくなく、僕なんかよりも日本の文化に詳しくて恥ずかしいくらいなのですがw、この時代、日本語を喋れるアメリカ人は全米でも50人程度。だからこそ、日本語養成学校が必要になったのです。そうしてできたのが海軍日本語学校(コロラド大学ボルダー校)。学校の講師は強制収容所に収容された日系人から選ばれました。

日本文学研究の第一人者のドナルド・キーンさんも実は、この学校のご出身。若かり頃のキーンさんは『源氏物語』を読んで日本に興味を持って、それで入学したいと志願されたそうです。この学校では、文法を教えず、授業では、ひたすら日本語を使い、耳から聞いた言葉を読んだり、書いたりして日本語を叩き込まれたと言います。それも1年間で。漢字はもちろん、漢字の旧字体や崩し字まで叩き込まれたというから驚きです。海軍日本語学校のある生徒は「頭脳が優れたI.Qの高い人たちで、言語習得力のある人たちだった。漢字はとても難しかったからね。」とこぼしたほど。そりゃ漢字の旧字体や崩し字まで勉強したんだもの。日本人の僕だって旧字体や崩し字なんて書けないしw

でも、語学を学ぶのに文法を教えないというのは、いい教育法だと思う。

僕はラジオの「基礎英語in English」(全て英語、日本語一切なし)とか「英会話タイムトライアル」とかで英語を学び直しているのですが、文法を学ぶだけでは頭になかなか入らないし、何より退屈なのですね。逆に耳からどんどん英語を聞いて、そして講師の先生が言った英語のフレーズを真似した方が、覚えるし楽しいのですね。最近では字幕で『ゴースト・バスターズ』とか『グーニーズ』など昔見た映画を字幕抜き、日本語吹き替え抜きでYouTubeで見たり、洋楽を聴いたり歌ったりしてますね。初見の映画はともかく何度もみた映画なら、役者がしゃべる事細かなセリフはわからなくても、あらすじは知っているので、こんなことを言っているんだろうなってなんとなく想像ができるし、その方が耳が鍛えられますね。洋楽は英語の発音を学ぶのはいいですね。カラオケで洋楽歌うのも楽しいし。

おっと、話が脱線してしまいましたねw失礼。こうして海軍日本語学校を卒業し、情報士官になった人たちはボルダー・ボーイズと呼ばれました。彼らは太平洋艦隊司令長官ニミッツの配下となり諜報活動を行なったといいます。例えば1943年5月のアッツ島の戦いでは、ドナルト・キーンさんも派遣され、戦場で押収した日記や文章の翻訳をして、情報収集をしたと言います。日記には自分の胸の内、家族への想いも綴られていました。それを見たドナルト・キーンさんはこう思ったそうです。

「アメリカ軍は日本人を自分達と全く別の狂信的な民族と思い込んでいました。しかし日記を読んでいくうちに我々と変わらない。同じ人間だったということがわかってきたのです。」


日記や文章の翻訳だけでなく情報士官は捕虜となった日本人の尋問にも当たりました。もちろん捕虜から日本の情報を引き出すためです。そんなアメリカ側の思惑を知ってか知らずか、日本人捕虜たちは尋問にはなかなか素直に応じようとしない。なぜなら、当時の日本は捕虜になることを恥だと叩き込まれており、中には殺してくれと頼む人もいたほど。それで、情報士官は日本語で、日本人捕虜の心を和ませたりしたと言います。もちろん、日本人捕虜の中には、聞いてもいないのに日本軍の上官の悪口とかをベラベラしゃべったものもいたと言いますが。

また、捕虜の中には幼い子供たちも少なくありません。そうした子供たちを殺すわけには行かないので、情報士官のテルファー・ムックさんは子供たちのためにマリアナ諸島のテニアン島に学校を作ってあげたのですね。テニアン・スクールといい、1944年の11月に開校しました。授業は日本語で行い、英語や体育の授業まであったと言います。英語の授業はムックさん自ら教鞭にたったとか。

そこの元生徒さんは「日本の軍国教育下では敵国の悪口しか教えられなかったが、この学校は違った。ムック先生も優しかった」というほど。ちなみにテニアン島には広島や長崎に落とされた原子爆弾を収納されたピッドがあったのですね。このテニアン島の飛行場からB29が飛び立ち、原爆が落とされたのですね。奇しくも今日は広島に原爆が落とされた日ですね。その飛行場から程近いテニアン・スクールの子どもたちはいつもと変わらぬ日常だったといいます。

戦後、ボルダー・ボーイズは退役し、それぞれ名分野で活躍しました。テルファー・ムックさんは戦後はアメリカにて法律家、聖職者を歴任。1991年に初めて日本にも訪れ、かつてのテニアン・スクールの生徒たちと46年ぶりの再会。ムックさんは「日本語はほとんど忘れてしまったが、皆さんのことは覚えています」と同窓会で、元生徒たちに語りかけました。テニアン・スクールの子供たちは戦後は沖縄にわたりました。そして、教え子たちの中には教師になった人もいたといいます。教え子たちは、沖縄の復興を担う若者たちを育てたのですね。ムックさんが生涯大事にしていたのは、日本人形。この日本人形はテニアン・スクールの生徒さんがかつて作ったもの。そのムックさんも2008年に亡くなられます。

ドナルド・キーンさんは日本文学の研究を行いました。キーンさんは京都大学の大学院に留学し、永井荷風や谷崎潤一郎、三島由紀夫など多くの作家と親しくなったのです。さらにキーンさんは東日本大震災で東北の人々たちの心に感動し、日本国籍を取得。鬼怒鳴門と名乗ったのです。キーンさんは日本人となって日本人として死ぬことを選んだのですね。そしてキーンさんは2019年にお亡くなりになりました。

※ この記事は映像の世紀を参考にして書きました。

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