History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

戦時中、ゼロ戦が活躍しました。ゼロ戦は当時の日本の最高技術の結晶でした。ゼロ戦の設計に主にかかわったのは堀越二郎。彼のことはジブリアニメの『風立ちぬ』にもでてきました。しかし、ゼロ戦を完成させるまで容易ではなかったのです。技術者たちの大変な苦闘があったのです。まず、海軍省から、堀越ら技術チームに新しい戦闘機をつくれと要求されたのです。

最高速度、時速500キロ以上、航続時間は6時間以上(距離にして2000キロをこえる)、上昇機能など運動面でも高い要求がされていたのです。これには堀越たちもびっくりしたといいます。堀越は
「例えていえば、十種競技の選手に対し5千メートル競走で世界記録を大幅に破り、フェンシングの協議で世界最強を要求し、その他の種目でもその種目専門の選手が出した世界記録に近いものを要求しているようなものであった」

それくらい無茶な要求だったのですね。まさに現場の苦労を知らない人間のたわごとと言ってもよいくらいで、今だったらパワハラものですが、技術者たちは軍部の無茶な要求にこたえるしかなかったのです。それで堀越がやったことは徹底的な軽量化。軽量化により速度をだすことができます。ただ、速度を重視するあまりに後に大変な仇にもなったのですが・・・

機体のデザインは堀越らが所属する三菱重工が担当。強度に影響のない部分を選んで肉抜き穴とよばれる穴まであけ、極限まで軽量化をはかり、機体の表面を覆う金属板も薄さ1ミリくらいにしたといいます。

エンジンは中島飛行機の「栄」(*1)を用い、主翼で荷重を支える部分には住友金属の超々ジェラルミンという軽くて丈夫な新素材を使用しました。まさにゼロ戦は三菱重工の一企業のものではなく国家プロジェクトのようなものでした。そしてゼロ戦は昭和15年に誕生します。ゼロ戦は抜群の運動性能で真珠湾攻撃でも大活躍。

アメリカもゼロ戦の登場に大きなショックを受けたといいます。当時、アメリカの海軍少佐で、のちにケネディの後を継いで大統領となるリンドン・ジョンソンはルーズベルト大統領にこんな報告書を残しております。

アメリカの戦闘機がいまでも無敵であると考える者がいたとしたら、それは愚かなことである。日本軍のゼロ戦は手ごわい難敵だ。我々が安心して眠ることができるのは、まだはるか遠い将来のことである。



しかし、ゼロ戦の弱点はアメリカに見抜かれてしまいます。それは高速での急降下に機体が耐えられないということでした。急降下ができないということは、アメリカの戦闘機が急降下で逃げられたら、それ以上ゼロ戦は追っかけることもできないということです。さらに操縦席や燃料タンクに防弾装備もありません。つまり一回攻撃すれば、簡単に火だるまになってしまいます。速さばかりを追求したことのツケが出てしまったのです。しかも悪いことにゼロ戦の活躍が日本軍に慢心を生み、後継機をつくることをせず、マイナーチェンジをするに留まったのです。結局、アメリカは形勢逆転、ゼロ戦の優位性はあっという間になくなってしまいます。追い込まれた日本は特攻隊を結成。しかも特攻に選ばれた機種がゼロ戦というのも悲しいなって。

ある日、堀越のもとに特攻隊をたたえるコメントを言ってくれと新聞社に依頼されます。しかし堀越の心情は複雑でした。

「多くの前途ある若者が決して帰ることのない体当たり攻撃に出発していく。その情景を想像しただけで胸がいっぱいになって、私は何も書けなくなってしまった。なぜゼロ戦がこんな使い方をされなければならないのか。いつもそのことがひっかかっていた」


敗戦ののち、GHQは日本の航空開発の一切を禁じられ、堀越ら技術者たちは存在そのものを否定されてしまったのです。当時の堀越は「私は職業の選択に失敗したと思う。私のこどもには戦争を放棄した日本にふさわしい永続性のある職業が見つかるように心の底から祈っている」と苦悩したのです。

しかし、ゼロ戦にかかわった技術者たちは、戦後になっても活躍したのです。たとえば、胃カメラ。胃カメラはオリンパス光科学工業(現オリンパス)が日本で初めて開発したのです。オリンパスはカメラの製造もそうですが、医療機器の開発もやっていたのですね。オリンパスと言えば僕も昔、オリンパスのデジカメ持ってました。オリンパスのカメラは性能がいいんですよね。

胃カメラの開発にかかわったのが、杉浦睦夫と深海正治。深海は同調発射装置(*2)の設計を担当していたのですね。深海はゼロ戦開発で培った技術を応用し、胃カメラの開発にかかわったのです。胃カメラのおかげで、胃がんの早期発見もできるようになり、多くの人が救われたのですね。戦争のための技術が、今度は人を救うために役立つようになったのです。

そして1950年にはサンフランシスコ平和条約で日本の主権も回復。航空機開発の禁も解かれ、飛行機を再び作れるようになったのです。堀越は再び飛行機づくりにかかわります。通産省から国産旅客機の開発の依頼がなされたのです。さっそく戦前の名の知れた技術者たちが集められました。特に土井武夫の存在が大きい土井は川崎重工のエンジニアで戦時中は川崎の戦闘機のほとんどを設計したといいます。また堀越と土井は学生時代の同級生でもありました。堀越と土井は飛行機づくりをめぐって、学生時代さながらの熱い議論をしたといいます。時につかみ合いのケンカにもなったことも。けれど、堀越達は基本的な設計のみにかかわり、あとは若い技術者たちに託したのです。そして昭和39年5月、日本初の国産旅客機YSー11ができたのです。YSー11は飛行テストでも合格。その時の堀越の喜びもひとしおでした。一時は飛行技師になったことを後悔しただけに。



さらに戦時中、戦闘機をつくった多くの技術者たちは車の製造にかかわりました。20代で栄をつくった中島飛行機の元技師の中川良一もその一人。中川は伝説の技師と名高く富士精密工業の取締役も務めていました。富士精密工業は中島飛行機をルーツにもつ企業で、のちに富士精密工業はスバルの開発をしました。

新幹線の開発にもゼロ戦の技術者がかかわっておりました。たとえば松平精。戦時中、ゼロ戦の空中分解事故を起こしたとき、いち早く原因を突き詰めたのが松平でした。いまでこそ電車の脱線事故は珍しくなりましたが、戦後まもないころは結構多かったのです。その電車の車両の脱線事故は台車の蛇行動であると松平は主張、新幹線では脱線しないように工夫をしたといいます。



*1 軽量で優れた燃費が特徴のエンジン
*2 
高速で回転するプロペラの間から機銃の銃弾を発射する装置。この装置があれば、どんなタイ       ミングで銃弾を打ってもプロペラにあたらない仕組みになっている。
*3

ジョージ・タケイさんは日系人で、強制収容所に入れられた過去を持ちます。タケイさんがこのように語られました。

我々は不完全な人間だと父は言った。民主主義も不完全だ。それは”我々国民”が不完全だからだ。偉大な大統領も例外ではない。(アメリカの理念にある)”我々国民”という言葉に意味を与えなければならない。”我々国民”が行動し、真実を吹き込まなければ単なる言葉にすぎない。参加民主主義の時代だ。我々は皆参加すべきだ。

〈敵〉と呼ばれても
タケイ,ジョージ
作品社
2020-10-30



ベンジャミン・ハリソン大統領の就任期間は1889年から1893年の4年間でした。彼の在任中にインディアン虐殺が起こったのです。ハリソン大統領の祖父はウィリアム・H・ハリソンといいましてインディアンと戦った人でアメリカの9代大統領でありました。つまり、ベンジャミン・ハリソンは世襲大統領の走りみたいな人だったのですねえ。ハリソン大統領の時に、ノースダコタ、サウスダコタ、モンタナ、ワシントンという4つの新たな州がうまれました。いづれも白人たちにとって未開の土地で、これらの土地に次々と白人の入植者がやってきたのです。当然、先住民であるインディアンは土地を奪われ、住み家を破壊されたのです。とくにスー族は多くの居留地に分けられ約4万5000平方キロの土地を失ったのです。その広さ、スー族がいた土地の半分のひろさの土地を白人たちに奪われたのです。

絶望したインディアンたちは、ゴースト・ダンスをはじめました。ダンスを踊れば先祖の霊がよみがえりバッファローの群れももどり白人が消滅すると信じたのです。それを白人たちはインディアンの反乱の兆しだと考えたのです。軍部は政府に文書を送り、ダンスのことを誇張して政府に伝えました。

ハリソン大統領は話を聞いて恐怖を感じたと。危機を回避し自分の強さを見せつけようとしたのです。そこで約5000人の軍隊を現地に派遣。その数、常備軍の4分の1という大規模な数。そして、連隊のリーダーはインディアンたちに踊りを今すぐやめろと要求。そして指揮官は銃殺を命令。悲劇は起こりました。銃声が止まり、大砲の弾がつきるまでに数百人のインディアン老若男女問わず殺されたのですね・・・

このインディアンの虐殺事件はウェンデッドニーの戦いと呼ばれております。ハリソン大統領はインディアンの命よりも入植者のほうが大事だったのです。それどころか、ハリソンは虐殺に参加した20人に名誉勲章を与えたというから、あきれたはなしです。

このインディアン虐殺はあくまでもアメリカにおけるインディアン差別問題の一つにすぎません。長いことインディアンはアメリカ人とみなされず、アメリカの進歩を妨げる存在だとずっと思われてきたのです。西部劇とか映画でもインディアンは悪役として描かれております。

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(リンカーン大統領。ウィキペディアより)

リンカーン大統領とは黒人奴隷に反対し、奴隷解放をした偉大な大統領として語られております。かつては英語の教科書にも彼の伝記が載ってました。ちなみに僕の使っていた英語の教科書ではキング牧師の伝記が載っていました。しかし、実際のリンカーンはそうでもなかった、むしろ国益のため、冷徹な計算で黒人奴隷に反対していていたのです。



リンカーンの就任当時、アメリカは南部と北部が仲が悪かったのですね。北部が工業中心なのに対し、南部は綿花などのプランテーション農業がメイン産業。農業には人手も必要なので、黒人奴隷が必要だったのです。そして南部が連邦を離脱、北部にケンカを売ったのですね。『ガンダム』に例えれば、地球連邦からジオンが独立運動をおこしケンカをうったようなものです。

北部に対して南部は戦力的に優位でした。南部が優秀なモビルスーツを持っていた?まさかw南部が北部に対して優位だったの理由の一つが奴隷制度。南部は奴隷たちをこき使って富を得ていたのですね。戦争は経済力があるほうが強い。また、いざとなったら奴隷たちを兵士として戦地に送り込むこともできる。リンカーンは北部と南部の戦争が泥沼化するなかで、考えました。奴隷制度を反対したら、南部に勝てるのではないかって。歴史の教科書では、奴隷解放のためにリンカーンは南部と戦ったみたいな風に描かれておりますが、そもそも北部の戦争の目的は奴隷解放ではありません。連邦の維持です。

実際、リンカーンは周囲の者に対しこう言っていたようです。

「奴隷を解放して連邦を救えるならそうする。解放せずに連邦を救えるなら、そうする」って。もちろん、リンカーンは奴隷制度に反対でした。ただ、かれは人道主義者でも平等主義者でもなかったのです。国のために何が必要かを常に考えていたのです。黒人を解放すれば南部は大混乱になる。そして黒人を連邦軍に加えれば北部は勝てるとリンカーンはおもったのです。また、奴隷制度を残しておくと、あとあと連邦にとって面倒なことになると判断したからリンカーンは反対したのです。奴隷制度を温存すれば、また南部が北部にやらかすかもしれない。リンカーンが奴隷解放命令について閣僚と協議を始めたのが1862年の夏のことでした。リンカーンはその時、議会に言いました。

「政治に必要なのは、よりよい想像ではなく、よりよい行動だ」

そしてリンカーンは戦争のさなか、南部に対して連邦に戻らなければ、奴隷を解放すると宣言し、南部が連邦に戻る決断をするまで100日待ってやるといいました。これには南部も反発。南部は結局、北部とこのまま戦う道を選びます。リンカーンは南部が反発することはわかっていたのですが、えて100日の猶予を与えたのですね。

そしてリンカーンは奴隷解放の本を書きました。そして奴隷解放宣言を正式にだしたのです。宣言に署名する際、リンカーンの手が震えていたのですね。彼はいいました。「もし、私が歴史に名を残すとすれば、この宣言のためだろう」って。精魂をこめてリンカーンは署名したのです。もっともリンカーンは冷徹に国益のことばかり考える人間ではなく、アメリカの建国理念を信じていたのです。その理念とは「すべての人は平等につくられ、生命、自由および幸福を追求する権利を有する」。その理念を実現させようという理想もリンカーンは持っておりました。

リンカーンの黒人奴隷解放の考えに多くの黒人が賛同。そしてこの宣言により約350万人もの黒人奴隷たちが解放されました。

リンカーンは白人のキング牧師だと考えるのは妥当ではない。白人のために尽くした大統領だった」と、アメリカの歴史学者が手厳しく語っています。しかし、彼のお陰で多くの黒人奴隷が救われたのは事実であります。そしてアメリカのある歴史学者はこう続けます。

完璧な人間が時代を良くしたのではない。欠点があり誤りを犯す人間が努力し続けたからこそ、状況が大きく改善された。それがリンカーンだった。


* この記事は『ビル・クリントン元大統領が語るアメリカ大統領史』を参考にして書きました。

https://hobbytimes.jp/article/20170313e.html

4代将軍、徳川家綱は影の薄い将軍と言われております。徳川15代将軍で影の薄い将軍ランキングのサイトで3位に選ばれるほど。ちなみに一位は7代将軍の家継でした。家綱は、知恵伊豆こと松平信綱、保科正之、大老の酒井忠清といった優秀な家臣に政治をまかせっきりで何もしないイメージがあります。実際、家綱は病弱で、なんでも家臣のいうことを「さようせい(そうしろ)」というので「さようせい様」と陰口をたたかれるほど。

しかし、家綱の治世は28年9か月という長きにわたり、歴代将軍の中でも長いほうです。また、家綱の時代に江戸じゅうを焼き払った明暦の大火(*1)や、由井正雪の乱(*2)など幕府を揺るがす大事件がおこり、それを家臣ともに乗り越えたのです。優秀な家臣にまかせっきりというのは聞こえは悪いが、優秀な家臣を信頼し、家臣の意見を聞き入れ、最後に責任は自分がとるというのは、むしろリーダーとして大変優秀なのです。かつて中日の落合博満監督は、「責任はオレが取るから。迷わずに思い切り自分の思った通りにやれ」とコーチたちに言い、当時の投手コーチだった森繁和さんに投手交代どころか、先発投手を誰にするかまでも任せたといいます。落合さんが直接、先発投手を決めたのは1年目の開幕戦、川崎憲次郎さんの一度だけ。それで落合さんは何度も中日を優勝に導いたのです。

なんでもリーダーがしゃしゃり出るのが優れたリーダーとは限りません。逆に優秀な家臣をつぶし、自分が一番でないと気が済まないリーダーは良くないのです。また家綱の治世は、それまでの武断政治から文治政治に切り替わった転換期でもあります。(*3)

家綱は三代将軍家光の嫡男として生まれました。母はお楽の方。家綱は幼少から病弱だったのですが、家光は早々と自分の跡取りにしたのです。家光には家綱の他にも男子がいたのになぜ?それは、家光の苦い経験があったのです。

かつて家光は自分の弟の忠長との間で世継ぎ争いをして、結局、弟を自害させてしまったのです。我が子にそんな思いをさせたくないとの親心からでした。それと、祖父の家康の影響も大きい。家光も実は幼いころから病弱でした。しかも、言葉もうまくしゃべれなかったのです。今でいう発達障害でしょうね。一方の弟の忠長は優秀で、忠長を将軍にという声もあったのですが、家康の「家督は長男が継ぐべし」という鶴の一声で家光は将軍になったのです。家光は家康に倣い、長男の家綱を将軍としたのです。

それと家光は家綱の人間性も評価していたのかもしれない。家綱が6歳になった、ある日のこと。家綱は家臣から、島流しに罪人の話をきいて驚いたのです。流罪人には食べ物など与えられず、餓死するものも少なくなかったから。「流罪に処して命を助けたにも関わらず、なぜ食料を与えないのか」と言ったのです。その発言に感心した家光は、「遠島になったものにも食料を与えるのは理にかなっている。今後は流罪人に対しても一定の食料を与えよう」と家臣に命じ、さらに「これを家綱の仕置きはじめにせよ」と命じたのです。仕置きはじめとは最初の命令のこと。6歳にして、ここまで人のことを考えられるなんてスゴイですね。

家継が11歳の時に父の家光が亡くなり、家継は将軍になりました。家継は将軍になるや、「吾、幼年なりといえども、先業をけ継ぎ、大位に居れり」と発言。11歳と言えば小学校5年生くらいの年齢。『ドラえもん』に出てくるのび太と同い年ですね。そんな幼い子の発言とは思えない、力強さを感じます。自分が将軍になるんだという覚悟が感じられます。また、幼い家継には、こんなエピソードもあります。家継が江戸城天守閣の最上階にいて、江戸の町をみていたら、近習のものに望遠鏡をすすめられます。そのとき、家継は言いました。

「われは少年ながら将軍である。もしも将軍が天守から望遠鏡で四方を見下ろしていると知れたらおそらく世の人は嫌な思いをするに違いない」と言って断ったといいます。客観的に物事をみれる聡明さと人々を思いやれる優しい人ですね。

そして明暦3年(1657)1月に明暦の大火。この大火事で江戸じゅうが焼けてしまいました。10万人もの犠牲者が出たとか。そして江戸城本丸までも焼けてしまったのです。江戸城の天守閣は防火設備も完璧だから燃えるはずがないと思われていたのですが、この時、火災旋風と呼ばれる炎のたつまきが発生。これにより天守の窓が開いて、天守の内部に火の粉が入ってしまい、炎は中から燃えてしまったのです。さらに本丸近くの弾薬庫まで火の手が伸びてしまい、弾薬庫こと爆発。江戸城の天守閣はなくなってしまったのです。その天守閣の再建をめぐって幕閣でも意見が分かれます。天守閣は将軍の象徴ですから、優先して立て直すべきだと。

しかし、保科正之は反対。「天守は無用。天守再建に充てる費用を町の復興にあたるべき」と保科はこたえ、家綱もそれに同意したのですね。将軍の権威より民衆のほうが大事だと家綱も思ったのでしょう。

また、家綱と言えばこういうエピソードもあります。家綱がまだ17歳くらいのころの話です。そのころ江戸城の庭に大きな岩がありました。剣術のけいこのジャマになるから撤去せよと家臣に命じました。それを聞いた酒井忠勝は「岩を外に出すには土塁や塀を壊さなくてはならないのでご勘弁ください」と。で、松平信綱は「大きな穴を掘って、そこに岩を埋めたらどうか」と提言。頭いいですね。さすが知恵伊豆。しかし、酒井はあくまでも反対。「世の中のこと万事思い通りになると思われると今後いろいろ問題があろう。岩は放っておいても害はない」と。家綱は、酒井の意見になるほどと納得したといいます。酒井は家綱にできないものはできない、家臣がなんでも思い通りに動けば、わがままを通り越して暴君になる危険もあることを酒井は危惧したのです。それを家綱は、そうだなって思ったのですね。家綱には家臣のことを受けいえる懐の深さがあったのです。

父の家光は、激高型で家臣か何か言えばキレてしまう性格。だから家臣たちも家光の逆鱗げきりんに触れないように気をつかい、殺伐とした雰囲気だったそうです。野球に例えれば中日時代の星野仙一監督みたいな感じでしょうか。一方の家綱は温厚で「武力や威圧で民を縛り家臣を押さえつけるまつりごとは先がない」という考え方。そうした家綱のもと、家臣たちは自由に意見が言えて、幕閣内も活性化したといいます。

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(明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられた回向院)

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(明暦の大火の出火元と言われる本妙寺跡。今はマンションなどが建っている
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(本妙寺があった菊坂。東京の文京区にある)

*1 明暦3(1657)年の江戸の大火。ふりそで火事とも。江戸城本丸も燃えるなど江戸の町55パーセントも焼け、死者10万人も超えた。その反省を踏まえ、大火後に道幅の広い広小路を作ったり、大名屋敷を移転させたり、墨田川に橋の増設も行った。大火前は敵の侵入を防ぐため、川に最低限しか橋がかかっていなかったが、火災で橋が少なかったために逃げられずに焼死した町民も多かった。その反省も踏まえたもの。『忠臣蔵』で有名な永代橋もこのころ建てられた。

*2 軍学者である由井正雪が中心に行ったクーデター事件。当時の江戸幕府は武断政治を行っており、大名家の取りつぶしを盛んに行っていた。それで大名の家臣たちが職を失い浪人となった。幕府は浪人たちの再就職の面倒など見なかったので、浪人たちの不満が爆発した。それで浪人たちを救い、幕府を倒そうと思ったのが由井小雪。将軍家継を拉致し、江戸城の火薬庫を爆破する計画であったが、幕府側のスパイの活躍で未然に防ぐことができた。そして首謀者の由井小雪は自害。

*3 それまで幕府はその力で諸大名を押し付けていたが、家綱の代から武力で押さえつけるやり方を改めた。その一環のひとつが末期養子禁止の緩和。末期養子とは、跡継ぎとなる子(嫡子)をもたない武家の当主が、死ぬ直前になってあわてて養子を取って跡を継がせること。 江戸時代の初期には、幕府は大名に対してこの行為を禁じていた。大名の家臣たちが自分らにとって都合の良い人間を跡取りにしようとか、そうした不正の温床にもなるということで。また跡取りのいない大名家は改易、つまり取りつぶしになる。大名家の力をそぐ意味でも末期養子の禁は理にかなっていたが、大名家がつぶれるたびに浪人が増えてしまった。これ以上浪人を増やさないためにも今ある大名家を存続させたほうがい、その大名家取りつぶしを制限するべく、末期養子を幕府はみとめるようになった

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