history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

1945年8月15日、終戦の日です。この日を境に日本人の価値観は大きく変わりました。軍国主義から民主主義の国へと生まれ変わる瞬間です。終戦からすぐさま「敗戦直後の国民意識」というレポートがまとめられました。それをみると日本人の意識の変化がいかに変わったかが、逆に変わらないものは何かがよくわかります。終戦後の不特定多数の日本人にいろいろとアンケートの結果もまとめられております。きょうはその辺のお話を。
今日のエントリーは、いろいろと数字が出てくるので、グラフを載せました。グラフはiPadのアプリで作らせていただきました。僕みたいな機械オンチでも簡単にグラフが作れるアプリです。いざというときには文明の機器に頼るべきですねw

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まず、日本人のあるべき姿について。その時、日本人はどのようなことを考えていたのでしょう。今日はその辺のお話をしたいと思います。「敗戦直後の国民意識」というレポートに日本があるべき変化について、あなたはどう思うか、提案してほしいというアンケートがあるのですが、まずは、その結果について。

一番多かった提案は「日本を平和国家にかえる。軍国主義者や軍国主義思想による支配を廃止する」で、22パーセント占めていました。その次は「日本をもっと民主化する」、「地主、独占資本の力を弱める、階級差を一掃する」と並びました。一方で、明治から続く軍国主義的な体制と同じでよいという意見はわずか「5パーセント」。これが軍の関係者とか官僚とかもアンケートに答えていたら、この軍国主義的な体制でよいという数値も上がっていたかもしれませんが、一般国民はそんなの望んでいなかったのです。

占領軍の改革指令が矢継ぎ早にでて、この先日本はどうなっちゃうんんだろうって戸惑う人も多かったことでしょう。それに戦争のドタバタで、ものごとを考える気力も失ったひとも多かったことでしょう。だから、「むずかしいことはわからない」という意見が22パーセント、「その他」がやはり20パーセント以上を占めていたのですね。

いづれにせよ、半数以上の日本人は戦前ならびに戦時中の政府のやり方に不満をもっていたことがうかがえます。軍国主義者たちのいうことを聞いたら、結局日本はめちゃくちゃになって、多くの日本人は幻滅したのですね。戦後の平和憲法を当時の日本人が歓迎したのは、こうした背景があったのですね。



一方の天皇制をどうするかという意見はどうでしょう。

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圧倒的多数で天皇制維持を当時の日本人は望んでいたのです。退位させよとか、天皇なんて興味ない、あるいは天皇制を廃止せよといった否定的な意見はわずか7パーセント。いかに日本人にとって天皇の存在が心のよりどころになっているかがうかがえます。昭和天皇陛下は戦後になって人間宣言をしましたが、それでも当時の日本人は天皇のことを神聖な存在だと思っておりました。これは戦前からの教育の成果というより、当時の人たちがわりと自然にそう思っていたのですね。

終戦で日本は極東における植民地支配は終わりましたが、それでも日本人の意識の中には、戦前の考え方は残っておりました。なんと86パーセントの人が日本人は中国や朝鮮などの極東のひとたちよりも優れた民族だと認識していたのです。

さらに「朝鮮が独立するのは20年早い」というアンケートには77パーセントの人が賛同するという驚きの結果になりました。じゃあ、どうすればよいかといえば、日本が引き続き朝鮮や台湾を植民地として保持すべきだったという意見が多かったのですね。

また「東南アジアなどの南方地域の現地人は日本人のことを「白人支配からの解放者」として大変快く思っているか?」というアンケートにはなと63パーセントも占めていたのです。つまり、日本人は、全アジアの中で最も優秀な民族で、日本は西洋列強の魔の手からアジアを救うメシアだという認識が当時の日本人に根強かったのです。今の日本にも、日〇会〇とかあの界隈にそうした考えの人はいますが、次第にそうした考え方は否定されつつあります。

たとえば1985年に朝日新聞が「日本が中国と戦争したことをあなたはどう思うか」というアンケートを行ったが、60パーセントの人たちが「やむを得ない」と述べたといいます。自衛のための戦争だから仕方がなかったと。もちろんあれはアジア解放のための聖戦だったという人もいたことでしょう。このアンケートに答えたのはサラリーマン中間層ないし高齢者の人が多かったので、このような回答になったのですね。

ところが、翌年の1986年に入学したばかりの大学生に同じアンケートをしたら、「侵略的な戦争」だったという意見が75パーセントを占め、「やむを得ない」が16パーセント、「正しい戦争」がたったの2パーセント。若い世代になるほど、先の戦争観も変わってきてるのです。戦後から40年もたつとこうも変わるのかなと。


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こうしてみると、戦後間もないころの日本人は民主主義的な国を望みつつも、国としては台湾と朝鮮半島ならびに満州国の権益を離してはならないと考えていた人が多かったのですね。ちなみに一般国民だけでなく、昭和天皇陛下も明治大帝の孫の時代に、海外の領土をすべて失ったことは大変な苦痛だ。って考えていたのですね。日本が民主主義的な国になることは歓迎しつつも、領土を手放すのはよくなかったってことでしょうね。

※ 参考文献



「ドラえもん」の声優が変わってもう5年以上たつのですね。大山のぶ代さんどころか、声優陣が一斉に変わったのは2005年。月日の経つのも早いものです。現在、ドラえもんは水田わさびさんが演じられており、ネットではわさドラといわれております。一方の大山のぶ代さんが演じられたドラえもんは大山ドラといわれております。

だから、今の若い子は、大山のぶ代さんたちが出てた頃の「ドラえもん」知らないかもしれないって。若い子と言っても平成一桁生まれの人たちは、大山ドラをご存じでしょうね。僕の親戚の子が平成7年生まれなのですが、わさドラも知っているが大山ドラのほうが断然なじみがあるって。ツイッターでも「1998年生まれの自分は、大山ドラを知っている最後の世代」という書き込みを見かけました。どうも、大山ドラがいいか、わさドラがいいかでネットでも白熱した?議論が交わされておりますw。


僕は大山ドラもわさドラも知っています。大山ドラはリアルタイムで見てましたし、わさドラも時々アマゾンのプライムビデオで見ています。僕はどちらも甲乙つけがたく、どちらにも良さがあると思います。両者を改めて比べてみるとドラえもんのキャラも微妙に違うなって。大山さんのドラえもんの声は何とも言えない温かさと包容力が感じられる。一方の水田さんの声はなんともかわいらしく、大山さんとは違った良さがある。



で、大山さん以下、旧ドラえもんの声優陣が一斉に変わったのは、ギャラじゃないかってウワサもありますが、ギャラというより、もっと違う理由があると思う。2001年ごろに大山さんががんを患ったのですね。幸い、退院できたものの、それ以降、大山さんは引退を考えるようになったと。それでたびたびスタッフたちに後継者の話をされていたといいますし、大山さんが以前に出された著作にも、後継者についても書かれておりましたっけ。今度の後継者は、自分(大山さん)の声に似ている人でなくてもいいと。そりゃ、大山のぶ代ボイスが出せる人はそうそういないですもん。

声優交代は、総入れ替え式と穴埋め式と二通りあるのですが、ドラえもんは前者。

声優陣がみな高齢って言うのもあるけれど、大山さんだけでなくほかの出演者たちも「大山さんがやめるなら私(おれ)もやめる」って役を降りたのかもしれないって僕はおもいますね。以前に、のび太役を演じられた小原乃梨子さんも、しずかちゃん役の野村道子さんも「『ドラえもん』の現場は仕事というより家に帰ってきたようだった」とおっしゃっていた。仕事が終わってもプライベートでの交流も盛んで一緒によく旅行に行ったと。だから、出演者たちが本当の家族のような温かい雰囲気だったのかなって。大山さんが抜けたら一蓮托生いちれんたくしょうってわけですね。一方のサザエさんの声優陣は、ワカメ役を演じた野村道子さん曰く、職人気質だったと。収録が終わればさっさと帰ってしまう。つまり、公私をしっかり分けていたと。旧「ドラえもん」メンバーも「サザエさん」メンバーもどちらもプロ集団だが、そうした違いがあるのですね。

あるいは、大山のぶ代さんのドラえもんがそれくらいインパクトが強かった。というか、大山ボイスあっての旧ドラだと。だから、のぶ代さんがチェンジしたら、全体的にリニューアルする必要があったのかもしれない。

大山さんが演じられているドラえもんは、友達というより保護者のイメージ。ちょくちょく暴走するのび太をなだめたり、優しく叱ったり、そんなイメージ。これは大山のぶ代さんが、子守ロボットというイメージでドラえもんを演じられたそうです。だから、大山さんは、子守のロボットなのだから悪い言葉はインプットされていないはずだと。それで言葉遣いに大山さんは、かなり気を使われたとのことです。

原作のドラえもんは、まず、のび太を呼び捨てです。しかし、大山さんが演じられるアニメ版のドラえもんは「のび太くん」と「君」付けしている。また、原作ドラは、ちょくちょく乱暴な言葉遣いをしたり、のび太を見下すような言葉を投げかけるのですね。たとえば、のび太が100点取った時は「ああ、つにカンニングしたか」ですもん。これは、ドラえもんは、のび太と対等の関係であることもそうですが、ドラえもんはそんなに優秀なロボットじゃないという認識が藤子先生の頭にあったのかな。


大山ドラは、そういった言葉はたま〜に出てくる程度。たとえば、原作では「のび太の馬鹿が」というのをアニメでは「のび太くんのおっちょこちょいが」って感じで。これは大山さんやスタッフの配慮だなって。やはり子供も見ているのだから乱暴な言葉はよくないってことでしょうね。

また、大山さんはお子さんがいらっしゃらないのですね。最初の子供は流産、二人目の子供は未熟児で三か月で亡くなったのです。そんな不幸があったのですね・・・。だから、大山さんは、のび太のことを本当の子供のように思っていたのかもしれない。実際、大山さんがあるバラエティー番組にご出演し、その時「のび太君はほかの女の子に浮気なんてしない。あの子はしずかちゃん一筋なんです!」って言いきっていたのですね。そのものの言い方は、まさに母親そのものでした。

一方の水田さんが演じられているドラえもんは完全に友達ってイメージで、のび太とは対等。いや下手したら、ドラえもんのほうが、のび太以上に暴走することがあって、逆にのび太のほうがドラえもんをなだめることがしばしば。おそらく水田さんは、原作にある友達のイメージを大切にしたいっておもって演じられているのでしょう。かといって、原作通りの乱暴な言葉遣いもしません。それと、水田さんも「ドラえもん」を見て育った世代だからか、水田さんも、大山さんを踏襲とうしゅうして、のび太を「くん」付けしています。友達といっても、乱暴な言葉づかいをしないって配慮は水田さんもしっかり踏襲しているのは、すごく良いですね。また、水田さん他俳優陣も大山ドラ時代の声優さんたちへのリスペクトも感じられるのもグッド。

その中でも木村昴さんは僕にとって印象的。元々木村さんは、旧声優陣のたてかべ和也さんと声質が似ているのでドラたち5人の中で一番違和感なく溶け込めました。たてかべさんは、新しくジャイアンを演じる声優さんとお祝いの酒を飲みたいと熱望したのですが、声優交代当初、木村さんが未成年だったので、たてかべさん、ガッカリされたそうです。

その間、たてかべさんはがんを患い、危ない状況だったそうですが、木村さんが成人されるまで、なんとか持って、お二人が酒を交わすこともできました。木村さんのブログに、お二人のツーショットの写真が掲載され、感動しました。二人がお酒を飲みかわして間もなく、たてかべさんは天国に旅立ったのですね。たてかべさんは、この日が来るまで待ってくださったんだなって。


あと、ドラえもんと言えば日テレのドラえもんのお話もしたいところですが、その話はまた別の機会に。

599年、推古天皇の時代、もっとわかりやすく言えば聖徳太子がいた時代に関西方面に地震がありました。

大和地震と呼ばれるもので、今の和歌山県が震源地です。マグニチュードは7.0。

この地震で家屋がことごとく倒れたそうです・・・・

地震は古い言葉で「なゐ」とよばれたそうです。「な」は「土地」、「ゐ」は「居」を意味するんだそうです。

「なゐ」はもともと大地という意味でした。大地が震えるので「なゐふる」と言いましたが、次第に言葉が縮められ、「なゐ」で「地震」と呼ばれるようになったようです。

この地震を恐れた推古天皇は、各地に「なゐの神」(つまり地震の神)をおまつりするように指示をだしました。なゐの神をまつれば地震が収まるのではないかと思ったのかもしれません。その「なゐの神」を祀った神社の一つが、三重県にある名居神社だそうです。


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源義経の家臣である弁慶が怪力の持ち主だったのは有名な話。というか弁慶なる人物が実在したかどうかは疑わしいのですが、それはともかく置いておいて、奈良県の吉野にある吉水神社に弁慶の力釘というものがあります。

源義経は、源平の合戦で平家と戦い輝かしい活躍ぶりでしたが、平家が倒れたとたんに、兄の源頼朝から、義経は疎まれてしまったのですね。この時代は兄弟といえども油断ができない、下手すると自分の親兄弟に寝首をとられてしまう危険もある。寝首を取られるくらいなら、親兄弟といえど殺してしまおうと。そんな時代に生まれたことが頼朝・義経兄弟の不幸でもありましたが。頼朝に追われた、義経は吉野に身を寄せていました。それをしった頼朝の追手は吉野までやってきたんです。それで、吉水神社の前身である吉水院のお坊さんたちが義経をかくまったのですね。え、吉水神社の前身の吉水院ってどいうことかって?もともとは僧坊で、1300年以上前である天武天皇の時代(白鳳年間)に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建した格式高い僧坊だったのです。

僧坊が神社となったのは、明治時代に行われた神仏分離によって、吉水院が後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから、明治八年に「𠮷水神社」と改められたのです。

頼朝の追手が吉水院までやってきて、「そこに義経がいるのはわかっている!出てこい!」ってさけんだのです。すると、弁慶が顔を真っ赤にして、そばにあった釘を二本手に取って、大声でさけんだのです。

「やあやあ、我こそは弁慶なり!力自慢をいたそうぞ」

それで、追手たちのすぐ近くにあった岩に、弁慶はなんと持っていた二本の釘を力を込めて、それも親指だけでうちこんだのです。ハンマーとか使わずにですよ。すごいですね。豆腐にくぎを打ち込むのとはわけが違います。追手たちは恐れをなして逃げ出したのですね。そんなバカな話あるもんかと思うかもしれません。しかし、弁慶の力釘の伝承は歴史的に根拠があったかどうかはべつにして、のちの時代まで語り継がれ、かの豊臣秀吉が、吉野に訪れ、弁慶の力釘にふれて、こういったといいます。

「力をもらいたい・・・力を!」って。


蘇我氏と物部氏は仏教の受け入れをめぐって対立していたというのが通説になっております。しかし、最近の研究でどうもそれは疑わしい。

そもそも仏教は6世紀半ばに百済王の聖明王から大和朝廷に正式にいただいたもの。日本側の都合で、「こんなのいらねえよ」って突き返せるものではないのです。それは物部氏といえど反対できなかったのです。渋川廃寺という物部氏ゆかりの寺があったのですが、そこから物部氏も仏教を受容していた痕跡が最近になって見つかったといいます。蘇我氏と物部氏が対立したのは、むしろどちらが仏教の担当者になるかという役目争いだったという説もあるのです。むしろ蘇我氏と物部氏の対立は仏教というより権力闘争だったというのが真相だったそうです。そうして両者は対立、血で血を争う戦に発展したのです。いわゆる丁未ていびの乱です。

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