History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

FCCA3CA0-4979-4DA2-817B-AAB7EEC05C9F

(KKKの儀式の写真。Wikipediaより)


1 第一期KKK
KKKという秘密結社をご存知でしょうか。正式名称は、汚い、臭い、気持ち悪い、じゃないですよwKKKは正式にはクー‐クラックス‐クランと言い、白人至上主義の団体です。ちなみにトランプ前大統領はKKKに批判的です。KKKはトランプのことを支持しているようですが。

この団体が生まれた背景は1861年から1865年まで続いた南北戦争にありました。南北戦争は黒人奴隷制度に反対する北部と奴隷制度に賛成の南部が対立し、南部が負けてしまった、そして中心的人物だったリンカン大統領が暗殺された、ってくだりは多くの教科書にも書かれております。

北部が奴隷に反対したのは、北部の方が人道的だったという面もありますが、北部と南部の産業構造の違いが大きかったのです。アメリカの北部は商工業中心で南部は農業中心でした。南部は黒人の奴隷を綿花農場とかでこき使い、そうやって生活が成り立っていたのですね。だから黒人奴隷を廃止せよという北部の言い分は南部にとっては死活問題だったのです。産業の構造が大きく崩れてしまう。

そうして、南北戦争の終結から間もない1865年の12月24日にKKKが結成されました。その時のメンバーはわずか六人。全員が元南部の兵士でした。奴隷制度を維持して、南北戦争の敗北の屈辱を晴らそうというのが、その結成の目的でした。その結成者はネイサン・ベッドフォード・フォレストです。南北戦争前は奴隷商人で、戦争中は南軍の英雄と呼ばれました。彼は白人至上主義だった言います。


B1CEF1C7-E25A-455D-A407-62F20DFE9A60

(ネイサン・ベッドフォード・フォレスト Wikipediaより。人相悪いねえ、いかにも悪いことしそうだけれど)



6036CFE3-EE30-453F-9F5D-8FC9BD00A98B

(初期のKKKの衣装)

また、KKKの衣装といえば、白装束に三角の白い頭巾というイメージがありますが、初期は違いました。KKKのイメージとは違いますね。何かホラー映画とかに出てきそうな雰囲気ですね。初期の服装は赤と白の服装にグロテスクなマスクでした。赤と白は南軍のモチーフです。わずか六人だったKKKもその人数は膨れ上がりました。当初のKKKは「黒人をしつける」という感じで、イタズラ程度の嫌がらせを黒人たちにしていたのですが、会員数が増えるに従い、次第に暴力的になっていったのですね。

1868年、ジョージア州ではたった三ヶ月で39人の黒人が殺害され、アラバマ州では109件もの(黒人への)暴行事件やら殺害事件が起こったのです。こうしたKKKで起きた人の命を奪うリンチや殺人は特定の誰かが指揮して行われた訳ではないのですね。つまり設立者のネイサン・ベットフォード・フォレストの命令で行われた訳じゃないのです。むしろフォレストは過激化するKKKのあり方を憂いたのですね。そしてフォレストはKKKを解散。

フォレストはKKKを設立したことから、アメリカのヒトラーと評価するものも少なくありませんが、実際の彼は確かに白人主義者だったけれど、世間で言われる程の黒人差別主義者ではなかったのですね。実際、晩年のフォレストは演説で、「黒人は彼等の望むどの候補者にも投票する権利があり、黒人の役割は高められるべき」と語ったほどだし、黒人に対する暴力には否定的でした。

ところが、KKKが解散しても黒人差別が完全になくなった訳じゃないのです。1877年にジム・クロウ法が南部で成立してしまいます。これは黒人の人種隔離制度で以後90年も続く悪名高き法律です。この法律で黒人たちは隔離され、黒人専用のバスや食堂とかができて、差別も相変わらずだったのですね。このジム・クロウ法は20世紀に入ってからも問題になり、1960年代の公民権運動にもつながるのですが、その辺は後ほど。

2 第二期KKK
 1920年代になると、またしてもKKKの活動が活発化します。しつこいなあwって思いますが、それくらい黒人差別が、特に南部で根強かったのですね。しかも、1920年代はKKKの最盛期と言われ、その会員数はなんと500万人。これは東京の人口の半分ですね。 KKKを復活させたのは、ウィリアム・シモンズという牧師です。1915年に神のお告げを聞いて、KKKを復活させたと言います。神のお告げというより、悪魔の誘惑のような気がしますが。ちょうど同じ時期に「國民の創生」という映画が上映されます。この映画は黒人が悪者として描かれ、悪い黒人をKKKがやっつけるというプロットになっております。この映画は人種差別を助長すると言って非難され、上映禁止運動も起こったほどでしたが、興行的には大ヒット。この映画に共感するものが少なくなかったのですね。だからこそ、KKKが息を吹き返したのでしょう。

第二期のKKKは古き良き時代のアメリカの道徳を取り戻そうという目的で設立されました。しかし、やっていることは一期のKKKよりもひどく、「黒人をしつける」とした以前のKKK以上に強硬的な過激派として活動したのです。例えば、1923年にはオクラホマ州だけで2,500件以上の暴行事件を起しており、放火や殺人が日常的に行われたと言います。暴力行為もそれはひどいもので、ターゲットを縄でしばって列車にひかせる、焼印を押すなど残虐さを極めたとか。

しかも、KKKの攻撃ターゲットも広がり、黒人だけでなく、有色人種全体の排撃を主張したのですね。この頃のアメリカは移民がどんどん入ってきた時代ですからね。移民たちに俺たちの仕事が奪われるって思って移民排除を行ったのです。

白人至上主義だけでなく、宗教色も強まり、カトリックやユダヤ教、イスラム教徒も攻撃の対象としたのですね。アメリカは伝統的にプロテスタントですから。他にも共産主義者も攻撃対象とされました。

もちろん悪いことばかりした訳じゃなく、病院や学校に寄付をしたり慈善活動も盛んに行ったのも第二期KKKの特徴と言えます。

こうしたKKKの姿勢は貧しい白人たちの絶大な支持を集め、南部の州だけでなく、中西部のテネシー州とかオレゴン州とかでは少なからぬ政治的影響力を持つようになったと言います。そして、インディアナ州では、KKKの構成員が州知事になったというから驚きです。知事だけでなく、後の大統領となるハリー・トルーマンもKKKの票が欲しくて、KKKに加入したこともあったというから、これまた驚きです。1925年には、KKKはワシントンDCで大規模なパレードを行なったと言います。秘密結社だったKKKが表舞台に堂々とでてきたのですね。

6F143B49-E9B2-4A11-B2BB-EE36B4EE1C92


そんなKKKもいろいろ問題を起こしたり、1924年に移民法が成立し、移民の制限が行われるようになると、次第にKKKの移民排除という目的もうしわなれ、徐々に衰退していきます。

3 KKK第三期
 1960年代になると、三たびKKKはよみがえります。きっかけは公民権運動。KKKの活動は残虐さを極め、黒人の家をダイナマイトで吹き飛ばしたり、黒人を狙ったテロやリンチ事件が一年で100件以上だったとか。こうしたKKKによる犯罪事件に警察署長も見て見ぬ振りをしていたと言います。なぜなら警察署長も公民権運動に反対していたから。やりたい放題のKKKによる犯罪で有名なのが、1963年9月に起こった16番地バプテスト教会爆破事件、もう一つは1964年に起こったミシシッピ・バーニング事件。

まず、アラバマ州、16番通りバプテスト教会爆破事件は、KKKがバプテスト教会にダイナマイトを仕掛け、爆破したのです。バプテスト教会は公民権運動の拠点の一つでした。だからターゲットになったのです。この爆破事件で、日曜学校に来た二十名が負傷、そして黒人女子小・中学生4人が死亡しました。幼い子供の命まで奪ったということで、この事件は世間から大いに非難されました。

ミシシッピ・バーニング事件は、黒人一人と白人二人の公民権運動の活動家が何者かに殺されてしまったのですね。三人はリンチの末、銃殺されてしまったのです。その時上がった容疑者は十八名。その容疑者たちはセールスマンとかドライバーとか牧師とか職業はさまざまでしたが、十八名全員KKKの構成員でした。十八名の犯行をめぐって裁判も行われましたが、陪審員は全員白人。アメリカは陪審員制度(✳︎1)を行なっていたので、これは黒人にとって非常に不利でした。裁判官による冷静な判決が下せません。18人中、11人が無罪、有罪になった7人も懲役3年ないし10年という軽い罪でした。殺人罪には至らなかったのです。つまり黒人と、その黒人の味方をしたから殺されたのだ、自業自得だという言い分でしょう。ひどい話ですが、これが1960年代のアメリカの現実でした。

しかし、神様はいるのですね、2005年にミシシッピ・バーニング事件の容疑者たちが改めて裁かれたのです。エドガー・レイ・キリンという容疑者の一人が過失致死罪の罪で60年もの懲役が裁判で決まったのです。キリンは1964年の裁判では陪審員がかばって無罪だったのに、それが一転して有罪になったのです。アメリカも変わったのですね。
1964年には公民権法が成立、1965年には(黒人への)投票権法成立、21世紀にはライス元国務長官やオバマ元大統領と黒人の政治家が次々と活躍し、KKKは衰退と思いきや、21世紀になってまた別の白人至上主義団体が出てきております。KKKも解散した訳じゃないし。差別問題をなくすのはまだまだ時間がかかるようです・・・

*この記事は「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました





✳︎1 陪審制度は,有罪かどうかは民間から任意に選ばれた陪審員が決め,有罪の場合にどのような刑にするかを裁判官が決めるもの。

現在放送中の、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。僕も最近は忙しくて見たり、見なかったりです。戦国と違って、あんまり馴染みのない時代のせいか、いまいち筋がわからず、途中で退屈になったりするのですが。それでも三谷幸喜さんのコミカルな脚本に笑ってしまいます。さて、鎌倉殿に源実朝が出てきて柿澤勇人さんが好演されていますね。

これまで僕が習った歴史では、実朝は政治には興味がなく、和歌と蹴鞠しか興味がなく北条氏の言いなりみたいな印象があったのですが、実は非常に政治的センスがあった人物があったのです。そのことを、この間録画した「英雄たちの選択」を見て驚いたのです。

和歌も蹴鞠も、ただ自分の趣味でやっていたのではなく、朝廷、特に朝廷のトップの後鳥羽上皇に接近するためにおこなっていたのです。後鳥羽上皇は『新古今和歌集』の編纂にも関わったほどの風流人であり、また、この時代は和歌が実際の政治を行う上で重要な役割があったのですね。

この時代は、高貴な家柄の人物が和歌を詠むことで天災、災害、天候にも影響を及ぼすとマジで信じられたのですね。武士が有力な貴族と付き合うためにも和歌は必要な教養だったのですね。後鳥羽上皇は、源実朝を大層気に入ったと言います。偉大な父源頼朝を失い、兄も暗殺され、周りにいる御家人たちも北条家を中心に面従腹背の人間ばかり。実の母親である北条政子さえイマイチ信用できない。そんな八方塞がりの状況の実朝にとって、後鳥羽上皇は頼もしい味方であり、父親代わりの人物だったのでしょうね。

ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子を思ふ



という和歌を実朝は詠んでいるのですね。意味は、動物と言えども親が子を思う心があるんだなって意味。逆に言えば、実朝には実の肉親さえ信用できない苦しい状況だ、と言う心境も伝わってきます。また、こういう和歌も後鳥羽上皇に送っております。


山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも


大意は、山が裂けたり、海が浅くなるようなひどいことになっても、あなた(後鳥羽上皇)に対する忠義は忘れません。という意味。

さて、実朝は政治に関心がないどころか、実朝は承元3年(1209年)、政所を開設し、将軍の権力を高めようとしたり、幕府の御家人たちを集め朝廷の警護にあたらせたり。朝廷は独自の軍隊を持っていませんから。

北条義時に対しても意見も言っていたのですね。

ある日、北条義時が「自分の家臣の地位(ついで自分の地位も)あげてくれ」と自分を特別扱いするように求めるも、実朝はそれを拒否したのですね。でも、北条氏にとって面白くないのですね。自分達の意のままに動いてくれない将軍なんて。

そんなおり、事件が起こります1213年、幕府の有力御家人だった和田義盛が義時のやり方に耐えきれず、北条氏打倒のために兵を挙げたのです。当時の和田義盛は侍所別当という職にありました。今でいえば防衛大臣と検察庁長官を兼ねたような地位です。そんな人が兵をあげるのですから、その当時の混乱ぶりがいかにひどかったか伺えます。その和田に味方したのが、三浦義村でした。彼は戦が始まる前までは和田に同調してたのですが、いざ戦が始まると北条義時に味方したのですね。三浦は北条と密約を交わしていて、和田の動きを逐次報告していたのですね。和田は完全に孤立します。和田と北条は二日間戦い続け、そして和田義盛は死んでしまうんです。いわゆる和田合戦です。この戦に勝利した北条義時は侍所別当になります。

こうした御家人同士の混乱ぶりに、後鳥羽上皇は、実朝に対して「こいつ、政治家としての統治能力がないんじゃないか」って疑われてしまうのです。さらに悪いことに1213年には鎌倉大地震が起こります。この時代、地震とか台風とか大きな災害が起こると、為政者の政治が悪いんじゃないかってマジで思われていたのですね。今と全然違いますね。こうしたこともあって後鳥羽上皇の実朝に対する信頼も失いつつあるのですね。そこで実朝はへこたれずに、和田合戦のような出来事が起こらないように、御家人たちとコミニケーションをとって、御家人たちの不満にも耳を傾けたのですね。そうして、御家人お意見を聞きつつ積極的な政治を行った実朝の姿勢に、後鳥羽上皇も喜んだのですね。

さらに、実朝は将軍の権威を高めようと、大きな船を作ります。大きな船を作って宋に渡って、貿易を行おうとしたのでしょうね。しかし、造船には莫大な金がかかるということで御家人の長老であり、将軍の諌め役の大江広元たが大反対するのですね。それでも実朝は造船を強行。結局、設計の失敗で、船は出航できず。

一方、実朝は朝廷の権威を持って御家人を抑えようとします。そんな実朝の心に応えるかのように後鳥羽上皇は実朝に官位を授けます。1211年の非参議から始まって、1218年10月には内大臣、同年12月には右大臣にまで昇進。あまりにも急な官位の上がりっぷりに御家人の間でも不安に思う声も上がり亜ます。この時代、あまりに短期間で官位が上がると不吉だと信じられていたのですね。

こうして後鳥羽上皇と強いつながりを持っていた実朝ですが、ウィークポイントがありました。それは跡取りがいないことでした。為政者に子供がいないというのはこの時代は致命傷です。なぜなら、この時代は為政者は世襲なのが当たり前。為政者が世襲だと何かと叩かれる令和とは、まるで違います。そこで、実朝は自分の後継者を後鳥羽上皇の皇子を自分の後継者として迎え入れようとしたのです。これは後鳥羽上皇にとっても悪い話ではありません。息子を実朝の跡取りになることで、実質的に朝廷は東国の強大な軍事力を手にいれ、幕府も思いどおりに支配できると。

そんな後鳥羽上皇と実朝の構想に不満を持つ人たちがいました。北条家はいうまでもありませんが、もう1人、公暁という人物です。公暁は、実朝の兄、源頼家の子供です。公暁と実朝は、おいと叔父の関係ですね。公暁だって将軍になれる資格があったのに、自分を差し置いて、将軍に天皇の子を迎えるなんて、とんでもないって思ったのです。実際、公暁が実朝に対する呪詛をしているというウワサもあったほど。

そして、公暁は実朝を呪い殺すことをやめ、実朝を実際に殺すことを企てます。1219年正月28日、実朝の右大臣拝賀の儀式がおこなれました。これは実朝が右大臣になったことにお礼をいう儀式です。その儀式が鶴岡八幡宮で行われました。儀式を終えた実朝が鶴岡八幡宮の階段を降りていく途中、公暁に突然斬られてしまうのです。その公暁も三浦義村に殺されてしまいます。

実朝暗殺の知らせをしった後鳥羽上皇は大層驚きます。我が子当然のように接してきた実朝の死に後鳥羽上皇は激怒。朝廷と幕府の関係は悪化。これが承久の乱につながります。もし、実朝が殺されなかったら、承久の乱も起こらなかったし、南北朝の動乱だって起こらなかったかもしれない。そして、その後の歴史も変わっていたかもしれません。

※ この記事は「英雄たちの選択」を見て書きました。


海賊というと数多おりますが、今日は何人かの海賊のプロフィールについて。



  1. フランシス・ロロシア(1639〜1667)

  2. 大変、残虐な人物としられ、ロロシアに会うくらいなら死んだほうがマシと言わしめたほど。ロロシア一行が陸に上がりお宝を求めて森を探索中、スペイン兵たちと出会します。ロロシア一行とスペイン兵たちは抗戦。スペイン兵を何人か捕虜にすると、ロロシアはなんと短刀を抜き、スペイン兵の捕虜の1人の胸を切り裂き、心臓を手づかみして取り出すと、「安全な道を教えろ。お前たちもこうするぞ」って脅かしたのですね。見せしめのため、別の捕虜の口に心臓を突っ込んで食わせたと言います。こええ、

  3. エドワード・ティーチ(1680年? - 1718年11月22日)

  4.  通称、黒ひげ。かなり有名な海賊です。黒ひげ危機一髪なんてオモチャがありますが、実在の黒ひげはもっとやばい人です。豊かにたくわえられた髭には、ところどころに導火線が編み込まれていました。黒ひげの決め台詞は「俺は地獄からきた。今からお前をそこへ連れてやろう」。黒ひげは、仲間を1人を突然殺したりと、怖い人でした。一方で合理主義者でもあり、黒人奴隷を仲間にしたりしておりました。

  5. ブラック・シーザ

  6.  黒ひげの側近で、元は黒人奴隷。黒ひげに出会う前は、白人の海賊と親しかったのですが、その友人と1人の女性をめぐって対立。結局、その友人をシーザは殺してしまうのですね。大変勇敢で、黒ひげの信頼も厚かったと言います。

  7. アン・ホニー

  8.  女性の海賊です。元々は裕福な家の出でしたが、恋愛気質で情熱的。1人の船乗りに惚れ込み、そのまま駆け落ち。さらに海賊の船長と恋仲になり、そのまま海賊になったのです。銃の名手であり、男たちを罵ったと言います。敵との白兵戦になった時、甲板で身を隠す男性の海賊たちに、意気地がない!戦えって怒鳴ったというから、すごいですね。

  9. ヘンリー・エイヴィリー(1659年? - 1696年?)

元々は海賊を取り締まる側にいました。ある夜、船長が寝ている間に、船を乗っ取り、自ら船長になります。そして乗組員たちと共にそのまま海賊になってしまいます。要するに取り締まるより自分が海賊になった方が儲かるから。船と乗組員を乗っ取り、略奪のかぎりを繰り返します。そうしていつの間にか400人以上の部下と6隻の船を持つ大海賊のボスになりました。ある日エイヴィリーは奪った財宝を6隻の船にバラバラに積むと誰かがちょろまかすから、ボスである俺の船に全部詰め込めとエイヴィリーは言ったのです。すると、隙を見てエイヴィリーは5隻の船を置き去りにして、逃げたのですね。財宝を独り占めしたのですね。ひどい話です。本国に帰ったエイヴィリーはそうして独り占めした財宝を商人に売り渡そうとしたのですが、その商人は、「あなたがどんな経緯でその財宝を手に入れたか知っているよ、私が役人にチクったら、あなたは死刑だよ」って言ってしまい、ただ当然で財宝を買い叩いてしまうのです。こうしてエイヴィリーは一文なし。37歳で死亡。自分の棺を買うお金もないほど落ちぶれたとか。


※この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

海賊たちの中には国に縛られず、自分達で好きなことをやろうという海賊も現れます。代表的な人物が、ベンジャミン・ホーニゴールド。スペイン継承戦争の後、私掠船乗りたちは生活に困ってしまい、多くの者が海賊行為に走ったのです。ホーニゴールドも例外ではなく、1713年ごろに海賊としてのキャリアをスタートさせます。ホーニゴールドは海賊仲間を引き連れてバハマ諸島のプロビデンス島を拠点とすることに決めました。プロビデンス島はイギリス領でしたが、度々のイギリスとスペインとの戦争で、本国の目も届かなくなり、いつの間にか荒れてしまったのですね。

ホーニゴールドたちだけでなく、他の海賊たちも次々と集まりました。また商人たちもたくさん集まってきて、プロビデンス島は大いに栄えたのです。集まってくる商人たちは、いづれも海賊たちの分前をあてにして集まってきたものばかり。だから、海賊たちに不利なことはしないだろうとホーニゴールドは思って、商人たちも受け入れたのです。こうしてプロビデンス島に多くの海賊たちが集まり、海賊共和国ができ上がります。そこの共和国で次の取り決めがおこなわれました。




  • 海賊船の中では、大事なことは船員たちの評決で決める。例えば、次の略奪目標とか船長を誰にするかとか。その取り決めは身分関係ない。船員一人一人の意思が尊重される。


  • 船長は戦利品2人分、そのほかの乗組員は一人分で平等に分け与える。


  • 敵と交戦中に四肢、つまり足や手のいづれかを失ったら、150ポンド支給。いわば労災のようなものが渡される。さらにその場合、船を降りても良い。



ずいぶん、フェアですね。国家公認の私掠船だと戦利品の10%は国に上納し、さらに残りの90%のうち、60%を船主と船長がぶんどる仕組みで、船員たちはそのおこぼれがもらえるのみでしたから。だいぶ待遇が良くなってます。

こうして海賊たちはカリブ海で暴れ回っていたのですが、これを苦々しく思っていたのがイギリスとかヨーロッパ各国。ヨーロッパ各国は新大陸への進出を狙っていましたから、カリブの海賊たちが邪魔になってきたのです。そこで現れたのがイギリスのウッズ・ロジャーズは。彼は元々私掠船の乗組員でしたが、出世して初代バハマ総督に就任していたのですね。ロジャーズは海賊に恩赦を与え、それを拒否して掠奪を続ける者は武力によって討伐しようしたのです。その恩赦にホーンゴールドは受け入れましたが、ホーンゴールドの弟子だったエドワード・ティーチ、通称黒ひげという海賊がそれを拒否。

恩赦否定派の海賊たちは、イギリス艦隊の船を撃破してしまい、いよいよイギリスと恩赦否定派の戦いは避けられなくなりました。

黒ひげも徹底抗戦したのですが、1718年11月22日、黒ひげことエドワード・ティーチは20カ所も刀で切られた挙句、五発の銃弾を受けて死亡したのですね。

一方のホーンゴールドは海賊の先生と呼ばれるほどの存在で、海賊共和国のリーダー的存在でしたが、恩赦の話が出るや、一転して海賊をやっつける側になるのです。こうして、海賊共和国は消滅、カリブの海賊たちも下火になって次第に消滅していきます。


海賊といえば「パイレーツ・オブ・カリビアン」や「ONE PIECE」を連想される方もいらっしゃるかもしれません。ディズニーランドにも「カリブの海賊」というアトラクションがありますね。僕も子供の頃に2回行ったことがあります。水上ライドに乗り、序盤で急流滑りにあって、そこからカリブの海賊たちが暴れている様子をじっくり楽しめるアトラクションですね。あれから25年以上訪れていないのですが、最近の「カリブの海賊」にはジャック・スパロウが登場するようですね。機会があれば、また訪れてみたいものです。

映画やアニメ等に出てくる海賊というと、素行は荒いけれど義理人情に厚いイメージとか、ジャック・スパロウのイメージを抱く方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それはあくまでも創作の中の話。リアルの海賊はそうでもなく、もっと残酷なんですね。

例えば、捕虜になった人を的にして海賊たちが射撃の練習をしたり、ひどい話になると、捕虜の頭を縄で縛り、棒を差し込み、ねじるとうい拷問をすることもあるのですね。海賊は生きることが全て。残忍であれば、残忍であるほど、良いみたいな雰囲気だったようです。

海賊と言いましても、海賊は古今東西いつの時代、どこにでも存在し、8世紀にはヴァイキングと呼ばれる海賊が北欧を中心に暴れまわり、日本でも村上水軍とか河野水軍とかが有名です。でも海賊と言ったらカリブの海賊のイメージが浮かびますね。カリブの海賊は17世紀に全盛期を迎えます。


カリブの海賊が生まれた背景は、1492年のコロンブスによる新大陸発見にさかのぼります。それ以降、カリブ海はスペインが支配していたのです。そして、カリブ海の島々でサトウキビ栽培が始まったのですね。サトウキビから砂糖をとって大儲けをしていたのですね。いわゆるプランテーションの始まりです。プランテーションとは、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、国際的に取引価値の高い単一作物、例えばコーヒーとかサトウキビとかを大量に栽培する(モノカルチャー)大規模農園またはその手法のことです。

大規模農園でサトウキビを栽培するということは人手が入ります。しかしきつい仕事のため、なかなか人手が集まりません。それで、インディオの奴隷労働や白人年季奉公人、のちの時代にあると黒人奴隷などを労働力としていたのですね。インディオや黒人はともかく、白人年季奉公人とは聞きなれない言葉ですね。年季奉公人は植民地の地主に雇われた白人奴隷のこと。本国で多額の借金を抱えた貧民、失業者、はたまた犯罪者がカリブ海に送り込まれ、安い賃金でこき使われていたのですね。あまりに過酷な労働環境だったため、逃げ出す年季奉公人も少なくなかったのですね。そうした年季奉公人が生きるために始めたのが、海賊なのです。

例えば、ヘンリー・モーガンという海賊は年季奉公人から海賊になり、さらには貴族になったというすごい人物がいました。モーガンは海賊になってから、略奪したお金を散財せずに、節約し、貯金しました。そうして財をためて、ジャマイカで農園を買ったのです。さらにジャマイカ総督の一族の娘と結婚をし、やがてイギリス本国で認められ、ナイトの位を国王から授かったのですね。海賊からナイトになったのだから、すごいというか世も末というか。モーガンは私掠免許までもらったのです。これは敵国の船であれば略奪や殺人をしても罪に問われないという国家公認の免許で、なんとも恐ろしいものです。当時のイギリスはスペインと対立していたので、スペインに勝つためには綺麗事を言ってられぬということでしょう。ヨーロッパ諸国は足りない軍事力を補うために、海賊の力を借りていたのです。民間の船や海賊に私掠免許を乱発していたと言います。特にスペインとイギリスは対立が酷く、イギリスは海賊たちをある意味利用していたのですね。一方の海賊たちも国からお墨付きを頂いたのだから、やりたい放題で略奪を行ったのですね。

ところで、私掠船というのも国家公認の海賊といえば聞こえが良いですが、末端の乗組員にとってはひどいものでした。私掠船が略奪した金銀財宝の10%を政府に差し出さなくてはなりません。残りの90%を船主、船長、乗組員で分かち合うのですが、その分前は船主と船長が30%ずつ、残りの30パーセントが則組員のものです。乗組員の分前が30%ということは、極端な話、乗組員が3人であれば、一人当たり10%ずつ分けることができるのです。ところが30人もいると分前は1人あたり1%だけ。乗組員が30人もいれば、船長と乗組員の格差がうんと広がるのです。30人以上になると、もっと乗組員の分前が減ってしまうのです

そんな私掠船も一旦下火になります。1692年にスペインとイギリスが和平を結んだのです。すると、それまで発行してきた私掠免許も取り消しになり、イギリスもスペインも海賊を取り締まるようになったのです。そうかと思ったら、今度は1702年にイギリスとスペインの継承戦争が始まり、再びイギリスは私掠免許を乱発。またしても海賊の活動が活性化したのですね。それが1713年にイギリスとスペインの継承戦争が終結。またしても私掠免許が無効。私掠船の取り締まりも強化。多くの私掠船の乗組員たちも生活に困ってしまうのですね。さらに悪いことに強欲な船主たちが私掠船の船乗りたちの略奪品の分前をもっとよこせとさらに要求。末端の船乗りたちは益々生活に困ってしまいます。

国に振り回される海賊たち。そんな海賊の中でも、俺たちの自治区を作り出そうという海賊も出てきます。その辺のお話はまた次回。

※この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。





このページのトップヘ