History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

今年の7月に安倍晋三元総理が殺されてしまったのですね。あまりに衝撃的な事件でして、僕も非常に驚きました。政治家が殺される事件はいつの時代にもありましたが、令和の時代になって起こるとは夢にも思いませんでした。政治家が殺されるのは大正から昭和初期に頻発しておりました。現職の総理さえ殺されることもありました。その人の名は、原敬。原敬は1921年11月4日に東京駅で刺されてしまったのです。警察が警備していたにも関わらず、犯人に刺されてしまったのです。右肺から心臓にまで小刀が刺さってしまったのです。警察や駅の職員たちは、すぐに医者をよんだのですが、間に合わず原は息を引き取ったのです。原が最後に残した言葉は、

「東京駅には1日どのくらい人が乗り降りするのですか❓1日の収益はどれくらいですか」

これは東京駅の駅長に尋ねた言葉です。原の周りに駅長と駅の職員、それから少し原から離れたところに警察が警備していた。そんな状況の中で、原は殺されたのですね。

犯人の名は、中岡艮一。鉄道省山手線大塚駅の職員でした。中岡は「この国賊!!」と言って原を刺したのです。中岡は、前日の新聞で、原が京都に行くため急行列車に乗車予定だと知ったのですね。それで、原のことを待ち伏せしていたのです。原は国賊呼ばわりされるほど、酷い政治をしたのでしょうか❓

いえいえ、原は平民宰相と呼ばれ、思い切った政治改革を行った人物です。しかし、原は堅実なマキャベリトで、パフォーマンスに頼るような政治家ではありません。そのため、誤解されることも多く、庶民の怒りを買ってしまったのですね。パフォーマンスに頼らない実務型の政治家というのは、いつの時代もあまり正当に評価されないのですね。原も総理になった当初は平民宰相ともてはやされたのですが、その期待の大きさの反動から、庶民の怒りもデカかったのですね。そういう意味では原は気の毒だったと。

原敬は、1856年、岩手県の今の盛岡市に生まれました。原敬の家は、盛岡藩の家老を輩出する名家でしたが、戊辰戦争で、盛岡藩は幕府の味方をしたので、朝敵、賊軍扱いだったのですね。戦争後、原家も没落したのですね。家禄も維新後はそれまでの10分の1まで減らされるほど。原敬も勉学で身を立てようと、上京して英語塾に通ったり、中江兆民がやっていた仏学塾に通ったりして、語学を学んでいたのです。そして原は郵便報知新聞社に入社しました。入社当初は翻訳の仕事でしたが、次第に記事も書くようになったのですね。そして原は井上馨の知己を得て、外務省にヘッドハンティングされたのですね。成功するためには人脈って大事なんですね。

それから原は政治家になりたいと思うようになり、立憲政友会に入ったのですね。そして62歳で総理大臣になれたのですね。それまで薩長藩閥が日本の政治を仕切っていたのが、賊軍の出身で、平民上がりということで、就任当初の原敬は国民の絶大な支持を受けていたのですね。原は、株価を安定させたり、教育改革をしたり、衆議院選挙の制度を改正して、それまで十円の税金を払っている男子しか選挙権がなかったのを、三円に引き下げたり、軍縮をおこなったりと積極的な政治改革を行ったのです。

へえ、結構いいことしているじゃん、なんで国賊よばわリされ殺されたの❓と思いますよね。実は、原敬は税金を払わなくても男子なら誰でも選挙権が得られる普通選挙に反対していたのですね。普通選挙を求める人たちは当然、原に反発。これは原がケチだったり、民主主義に理解がなかったからではありません。実は原は普通選挙には理解を示していたのです。でも、原は国民のほとんどが政治というのを理解していない状況だ、普通選挙を今の時点でやったら、それこそ愚民政治になって危険だと思ったのですね。それこそ、パフォーマンスと口ばかりで何もしないような政治家が有利になってしまう。あるいは危険な思想を持った政治家が当選する恐れもある。実際の政治というのは、すぐに成果が出るもんじゃないし、地味な仕事の積み重ねなんですね。そのことを理解できる人は当時は少なかったのですね。

さらに原にとって不幸だったのは、株価の暴落から始まった不況、さらに南満州鉄道資金提供疑惑(原率いる政友会の政治家が関わった)、アヘン密輸疑惑(※1)という汚職や疑惑が国民の反感を買ったのですね。こうした疑惑はマスコミが大々的に報道。人々は「原はとんでもないやつだ!けしからん」って思ったのですね。そういうマスコミの加熱した論調に、中岡も共感したのかもしれない。さらに悪いことに1920年には官営八幡製鉄所で大規模なストライキが起き、原は警察や憲兵を使って、それを鎮圧し、250人もの職工が解雇されてしまったのですね。原は庶民に厳しく、身内に甘いという評価をされてしまったのですね。実際の原はマキャベリストで、慎重にかつ着実に政治を行っていくタイプ。こういう政治家は、政治家としては非常に優秀で、むしろ今の日本に必要なくらいなんですが、こういうタイプの政治家は概ね庶民から人気がないのですね。大した成果を上げなくても、見たくれとか、パフォーマンスばかりに頼る政治家の方が軍配が上がってしまう。

そうした原に対する世論の反発、マスコミの影響で平民宰相•原に対する憎しみが中岡の心の中でフツフツと湧いてきたのですね。

それでは中岡の生い立ちについて。中岡の実家は土佐藩士で、土佐藩は、明治維新では薩長土肥の一因として重要な役割を果たしました。まさに明治維新の勝ち組です。中岡も成績も優秀で、うまくいけば官僚になって政治家になれたかもしれない。ところが、父親が大病し、中岡の家は没落。それで原は家族を養うために印刷会社で働くのですね。そして父の死後、中岡は転職し、鉄道省山手線大塚駅で働くことになったのですね。鉄道の仕事は激務で、ほぼ24時間勤務。そのうち休みは3時間だけ。その3時間は仮眠時間。当時は労働三法とか36協定なんてない時代でしたからね。大変だったと思います。しかも給料は安くて95銭。今の価値に直せば15万円。労働時間の割に安すぎですね。これじゃあ不満も高まりますね。ましてや中岡は土佐藩の出。中岡の目から見た原は、「賊軍の出のクセに総理になるとはとんでもない、しかも大した政治をやっていないじゃないか」って感じだったのでしょうね。

中岡は単独犯とされておりましたが、中岡をそそのかした人物がいたのではないかってウワサも当時からありました。その黒幕の名前として噂にあがったのが、頭山満。彼は福岡で玄洋社という結社を作り、アジア主義を掲げました。日本が中心になって西洋列強と戦おうというもの。いわゆる大アジア主義です。その頭山と中岡は知己だったのですね。原内閣は、第一次世界大戦後の国際協調の動きに合わせ、軍縮をおこなったのですね。そのことに頭山たちは反感を持ったのですね。これから軍備を整え、列強と戦わなかきゃいけないのに、西洋列強のペースに乗っかるとは何事かって。

それで頭山は中岡を唆し、原を殺させたのだと。中岡は事件後、頭山を頼ったといいますし、中岡も裁判では検察側は死刑を求刑したのですが、なぜか無期懲役、さらに恩赦が出て11年三ヶ月に刑期が減ったのです。そして、あろうことか中岡は満州に渡り、陸軍司令部の職員にまで主任にまでなったと。考えられます❓安倍総理を殺した犯人が、減刑され、自衛隊に再び入って管理職になったようなものです。そんなおかしなことが戦前、戦時中はまかり通っていたのだから、そりゃ日本は無茶な戦争をするわけだって思いましたもん。中岡が陸軍の職員になれたのは玄洋社の働きかけもあったのかもしれない。玄洋社は政界や軍部に大して大きな影響力を持っていましたから。

原の話に戻します。実は原は殺される前から、度々脅迫状が届いていたのですね。原は命の危険を感じて、遺言書を生前に書いていたのです。そこには「葬儀は生まれ故郷の盛岡で質素に行うこと」と書かれておりました。変わり果てた原は盛岡に運ばれましたが、その時、3万人もの人々が沿道に詰めかけ原の死を惜しんだといいます。葬儀は実に質素に行われました。原の妻の浅も健気に夫を見送ったとか。実は、腹が殺された当日、妻の浅は原敬に「今日は寒いから厚手のオーバーを着ませんか」って勧めたのですね。それを原敬は、大丈夫って拒んだのですね。もし原敬が妻のいうことを聞いて厚手のオーバーを着ていたら、そこまで深傷を負わず助かっていた可能性がありました。

原敬の死後、政友会はバラバラになり、政党政治は弱体化。それに伴い軍部が力をつけてきて、5•15事件、2•26事件と政府の要人が殺される事件が次々起こり、日本は危険な道をたどってしまうのです。

※この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。








※1 原がアヘンの密売をやっていたのではなく、拓殖局(満州など植民地経営に携わった役所)の長官の指図というウワサが立つ。その長官が原の側近だったので、原は避難されたのですね。

「ジェノサイド」という言葉。大量虐殺の意味ですが、この言葉は古くからある言葉ではありません。ギリシャ語の 「geno(ジェノ)」(種族)とラテン語 の「cide(サイド)」(殺戮)の合成語なんですね。この言葉を考えたのは、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキン。レムキンが「ジェノサイド」という言葉を思いついたのは1941年8月、ウィンストン・チャーチルのBBC放送演説における「われわれは名前の無い犯罪に直面している」という言葉によると言われております。その名前のない犯罪とはナチスドイツによるユダヤ人虐殺のこと。

戦後、ドイツのニュルンベルク裁判(1945年)で、この言葉が使われました。ナチス幹部が「人道に対する罪」で告発され、 「ジェノサイド」という言葉も起訴状に盛り込まれたのですね。

1948年12月9日、レムキンのたゆまぬ努力もあって、国際連合は、ジェノサイド犯罪の防止と処罰に関する条約を採択したのですね。 それも国連の満場一致で。この条約により「ジェノサイド」は国際犯罪と定められ、締約国は「防止と処罰を行う義務」を負うことになったのです。ジェノサイドが行われた国に、締結国はジェノサイドが行われた国や地域で、虐殺をおこなっている当事者に「そんなことはやめようぜ」って介入する義務があるのですね。こうした条約が結ばれたのは戦前のユダヤ人虐殺の苦い経験があったのですね。

実はユダヤ人がナチスによって虐殺されているという報道は戦前からされていたのです。にもかかわらず、ほとんどの国は黙認し、ナチスの蛮行を止められなかった苦い経験が。戦時中、ヤン・カルスキというユダヤ人収容所に潜入した人物がいたのですが、彼はわざわざアメリカの大統領ルーズベルトに会ったのに、ユダヤ人虐殺の話はロクに聞いてもらえず、ルーズベルトがいった言葉が「我々(連合国)は戦争に勝つ」だけ。つまり連合国にとって戦争に勝つことが大事で、ユダヤ人が殺されようが、なんだろうか関係ねえって態度だったのですね。

また、広島、長崎の原爆もジェノサイドですよね。アメリカのジャーナリストのジョン・ハーシーはこう書いております。

アメリカに対し、何者にも消し難い恨みを抱き続けていく。ある医師がいった。『ちょうど今、東京で裁判をやっています。原子爆弾の使用を決定した連中をあの裁判にかけて、みんな絞首刑にすべきではないか』って」



にもかかわらず、東京裁判では戦勝国の都合のみで、原爆を落としたアメリカには罪に問われることがなかったのは歴史が証明する通り。それどころか、戦争を終わらせるためには原爆投下が必要だったという理屈がアメリカでまかり通っているのですね。ひどい話です。

こうした戦時中のジェノサイドを防止しようと決めたのがジェノサイド防止条約なのですが、戦後になっても、中国とか台湾、カンボジア、イラクなど世界の各地でジェノサイドが行われました。そして、今日取り上げるのは1994年に起こったルワンダ虐殺。


ルワンダ逆殺の始まりは、アフリカ中央部にあるルワンダにおいて、1990年から1994年にかけ、フツ族中心の政府軍、ツチ族のルワンダ愛国戦線 との間で内戦があったのですね。いわゆる民族紛争ですね。ルワンダにおいて、フツ族は多数派、ツチ族は少数派だったのです。それが激しい対立になったのですね。そして1994年の4月7日から虐殺が始まったのですね。フツ族の民兵が中心になってツチ族及び穏健派のフツ族に対して虐殺をおこなったのです。

ツチ族とフツ族の対立の歴史は1990年代にいきなり始まった訳ではありません。ことの発端は植民地時代からさかのぼります。19世紀末からドイツがルワンダ一帯を支配し、第二次世界大戦後にはベルギーの支配下に置かれたました。。元々フツ族とツチ族は同一の由来があったのに、ベルギー植民地時代に完全に異なった人種として扱われていたのですね。そしてフツ族とツチ族の格差が広がり、双方の不満がどんどん高まっていったのです。

しかし、植民地支配末期の1959年頃から、フツ族の暴力を伴う反乱が各地で起こるようになり、とうとう1961年に革命が起きました。そして、1962年にルワンダ共和国として植民地支配からの独立を果たしました

そして、ベルギー植民地時代の末期の1959年頃から、フツ族の暴力を伴う反乱が各地で起こるようになり、とうとう1961年に革命が起き、1962年にルワンダ共和国として独立。独立したのはよいものの、ルワンダ国内の様々な矛盾が浮き彫りになったのですね。1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、1990年代初頭のハビャリマナ大統領(フツ族)によるツチ敵視の政策によってますます対立が深まったのですね。1994年4月6日にハビャリマナが突然暗殺されると、重石が取れてしまったのですね。実際、ハビャリマナは独裁政権をしき、ツチ族を敵視していたものの1993年には和平交渉するなど努力もしていたので。

そして大統領暗殺翌日の、1994年の4月7日から始まったジェノサイドは100日にも及び、その間に80万人も虐殺されたと言います。

実はルワンダ虐殺が起こる数ヶ月前から、国連はPKO部隊を派遣しました。しかし、派遣したものの、混乱は治らず、虐殺はひどくなるばかり。虐殺が起こる前から危険を察知していたにもかかわらず。ただ、彼らは手を拱いて傍観するしかなかったのです。これじゃ、PKOがいても無駄ということで、次第にPKO部隊の数も縮小していったのです。特にアメリカは、ルワンダの出来事はアメリカの国益とは無関係ということで、ルワンダの治安安定に消極的だったのです。PKO部隊長だったロメオ・ダレールはこう嘆きます。

私たちはジェノサイドを防ぐことができただろうか。端的に言えばイエスだ。何らかの対応をすべきだということについては、ほとんどの国家は同意していたが、どの国もこの問題に対してすべき国家は自国ではないという言い訳をしていた。本当のところ、このルワンダ人の物語は危機にさらされた人々の助けを求める声に耳を傾けることのできなかった人類の失敗の物語である



結局、1998年にルワンダ虐殺の当事者たちは裁判にかけられ、有罪判決も出ました。終身刑となって今も服役中のものもいます。その後、ルワンダは経済発展を遂げ、アフリカの軌跡とまで言われるようにになりました。虐殺が起こった4月7日はジェノサイドの日とされ、毎年、あの悲劇を繰り返さないようにと国民が誓うのです。

最後にダレールの言葉を再び引用します。

私は何度も問いかけてきた。私たちは同じ人間なのだろうか。あるいは人間としての価値には違いがあるのだろうか。間違いなく先進国で暮らす私たちは、自分達の命の方が地球上の他の人々の命よりも価値があると信じているような行動をとる。もし私たちが全ての人間が同じ人間であると信じているのならば、私たちはどのようにしてそrを証明しようとするのだろうか。私たちの行動によってしか証明しようがないのだ。


※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。





以前に、戦前は格差社会だったというお話をしましたが、あの時お話ししたのは、大正の終わりから、昭和の初期のお話。今日は明治のおはなしをします。明治維新以降、明治新政府は、近代化をどんどん推し進めました。西洋の様々な文化が日本に入って来て、ガス燈や、鉄道、太陽暦、西洋の様々な法律、それから洋服に洋食といろいろなものが入ってきました。近代化が急ピッチで進んで、日本は一等国を目指す一方で、そうした日本の急激な変化についてけない人々も出てきます。何事にも光の面と影の面があります。今日はその辺のお話ができればなと。

新政府は元々財政難でした。江戸幕府を倒したのは良いけれど、その財政基盤がまだ出来上がっていない状況のまま、国の舵取りをすることになったのですから。様々な改革を行いましたが、改革にはお金がかかります。それで政府は紙幣を大量に発行したのです。そのためインフレになってしまったのです。僕も子供の頃、思いましたね、お金がないというのなら作れば良いじゃんって。しかし、僕も見た目だけは大人になってw、それはインフレを起こしてお金の価値が下がってしまうから良くないのですね。かつてのドイツもすごいインフレになって庶民は困ってしまったのですね。パン一斤を買うのに何百枚の札束を用意しなくてはならなくなる。そのインフレによる窮乏がヒトラーの台頭を許してしまうのですね。

おっと、話が少し脱線しましたねw。さらに悪いことに西南戦争が起こってしまったから、その戦費のためにさらに政府は紙幣を大量発行、ますますインフレになります。そんな状況の中で、松方正義が大蔵大臣になります。彼は緊縮財政を行い、国営の工場を民間に払い下げなどを行いました。いわゆる松方財政です。しかし、彼の急ピッチな財政改革はデフレを起こしたのです。それに加えて、冷害で作物が育ちにくくなりました。地方の農民たちは、小作人になって地主に雇われたり、仕事を求め都会に出て来たりしました。農民じゃなくても人々の暮らしもデフレの影響で苦しくなります。そんな状況でも、時代の波に乗ったり、はたまた政府のお偉いさんに取りいって成功する者たちも出てくるわけです。例えば、岩崎弥太郎とか。いわゆる格差社会になるのです。

貧しい人たちは貧民窟とよばれるスラム街に住むようになります。東京にもあちこち貧民窟がありましたが、とりわけ、下谷万年町(台東区東上野)、芝新網町(港区浜松町)、四谷鮫河橋(新宿区若葉)が東京の三大貧民窟と呼ばれました。貧民窟が新聞で初めて取り上げられるのが明治十九年(1886)。

その記事には「人間の住む家とは思えぬ」と書かれておりました。

住居は4畳一間で、そんな狭いスペースに5、6人も住んでいる。そこに住んでいる住民はアカまみれ、男か女かわからない、まるでケモノのようだと。おそらく髪もボウボウに伸びていて、男性はヒゲがボウボウ。服もボロボロ。お風呂にもロクに入れないから、アカまみれ。体臭もひどい。服を買うお金、おしゃれをするお金もないほど貧しいってことでしょう。しかもフトンもレンタルだったというから、そのレンタル料金もバカになりません。

ろくな仕事もなく、あっても「もうろう」というお仕事か、内職くらい。これは人力車の車夫の仕事ですが、今日の観光地で見かけるような、かっこいい車夫のお兄さんのイメージとは大きく異なります。「もうろう」とは車夫の組合に入れないようなモグリの車夫で、給料も激安。一日7・7キロ走っても16銭しかもらえなかったのです。車夫のユニフォームは腹掛けに股引き法被と決まっておりましたが、それも、お金出してレンタルしなきゃいけない。要するに自前。普通の車夫業者のようにユニフォームをくれないのです。

そして幼い子供は奉公に出されてしまうのです。


また、新聞には「こんな世に何の望みがあって命を惜しんでいるのだろうか、むしろ、この世を捨てた方が楽なんじゃないか」とも書かれておりました。

第二次世界大戦において、日本が破滅の道を歩んだ、その第一歩というのが日独伊三国同盟です。これは、1940年9月に調印されました。3国のアジアとヨーロッパにおける指導的地位を確認し、もし、この三国が敵から攻められたら互いに助け合うというもの。これにより、日米との対立は決定的になり、アメリカと日本の戦争につながります。

そんな日独伊三国同盟締結を反対する声はなかったのかとお思われますが、実際、日本国内でも反対意見が少なくなく、こんなものを締結したら大変なことになるという声もちらほら。西園寺公望は、「ドイツだけが得をするもので、日本にとって非常に不利なもの」と懸念を示したほど。国内の反対意見を押し切ってまで成立した日独伊三国同盟。この日独伊三国同盟を強烈にプッシュした人物がいました。その人物は大島浩。

大島浩は、陸軍軍人で、父はの大島健一は陸軍大臣にまでなったほど。大島健一は薩長出身でないにも関わらず、陸軍大臣になれたのは山縣有朋に気に入れられたことも大きかったとか。

大島浩はドイツ語が堪能で、ドイツ通と呼ばれておりました。一概に言えませんが、「○○通」と呼ばれる人は大局的なものの見方、広い視野で物事を見れない傾向があり、また自分が気に入った人物やものに深く入れ込むことがあり、客観的な判断ができないことがあるのですね。また大島にかぎらず、陸軍はナチスドイツに入れ込んでいたのですね。

大島浩は1921年以降、ドイツに断続的に滞在し、ドイツにおいて人脈を広げ、1933年以降は、ナチスの幹部とも個人的につながっていきます。そして大島はリッベントロップという人物に出逢います。リッベントロップは元々はビジネスマンでしたが、ナチスに入党して、ヒトラーに気に入られ、出世していたのです。大島はリッベントロップとの個人的な関係を通して、ドイツと日本の距離を縮めていこうとします。1936年には日本とドイツとの間で防共協定が結ばれますが、これも大島の強い働きがあったからと言います。これは日本とドイツもどちらも反共産主義を国策としてとっている。ともに共産主義、とりわけソ連と戦おうというもの。


しかし、協定が結ばるその間、外務省が防共協定につきイギリスとも何らかの話し合いが必要だと言ったのですね。日本はイギリスと同盟を結んでいましたからね。それを陸軍が強硬に拒否、外務省はイギリスへの工作を伴わないで、ドイツとだけ提携しようとするのはまずいんじゃね?と反論。陸軍はそれを譲歩したと言います。合わせてこの協定がソ連を過度に刺激したり、イギリスに不安を抱かせることがあってはならないことも強調することを確認の上で協定が結ばれました。が、結局、この協定は各国に不信感を抱かせるのですね。よりにもよってナチスと結ぶわけですから。

その後駐ドイツ大使であった東郷茂徳を退け、1938年(昭和13年)自らが駐独大使に就任したのですね。そして、同じ年、大島と関係の深かったリッベントロップもドイツの外相に就任します。

そんなドイツも1939年に独ソ不可侵条約が結ばれます。これはドイツとソ連が戦争するのをやめようという取り決め。それにショックを受けたのが日本。それまで日本はドイツと一緒にソ連と戦おうと約束したのに。日本は裏切られた気分でしょう。時の首相の平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇たる新情勢を生じた」と述べ総辞職をしたほど。大島もドイツの動きを見抜けなかったということで、その責任を負いドイツ大使を辞めてしまったのです。

しかし、その後もドイツは日本と同盟を結ぶことを模索していたのですね。ドイツはフランスを陥落させ、イギリスに空爆をするなど破竹の勢いでした。そんな状況でしたが、アメリカがイギリスを助けるとなると状況も違ってくる。当時のアメリカは第一次世界大戦で痛手を負っていたため、ヨーロッパの戦争に関わりたくなかったのですね。それでもアメリカが参戦すればドイツは不利になる。一方の日本はアメリカとの関係も悪くなっている。それでドイツと日本が手を結べば、いくらアメリカといえど、日本、ドイツ、それとイタリアを相手に戦うのは難しいだろうという計算がドイツにあったのですね。

また、日本もアメリカと対立が深まって、ドイツの協力が得られるのはありがたい。それとアジアの権益をドイツに認めてもらいたいという思惑がありました。独ソ不可侵条約で仲間割れするかと思いきや、ドイツと日本は再び接近します。しかし、それは友情というものでは決してなく、お互いの思惑があっての話。

1940年8月13日、ドイツはベルリンの日本大使館に正式な同盟締結に向けた交渉を通達。9月7日にリッベントロップの指揮の元で特派公使としてハイリンヒ・スターマーという人物が来日します。そのスターマーが日本に来る際、真っ先に訪れたのが大島浩の自宅だったと言います。それから、スターマーはドイツの駐日大使を伴って松岡洋右外相とあい日独伊三国同盟の交渉に当たったと言います。日独伊三国同盟の主要な条文は以下の通り。




第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ歐州ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亞ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。



カタカナと難しい漢字ばっかで読みづらいですねw要するに、「日本とドイツとイタリアは同盟を結びますよ、日本がアジアを支配をするのを認めますよ、でも、それぞれの国が他国から攻撃を受けたら、政治的に経済的に援助しなさい」、ということでしょう。それと、それに加えて、ドイツは自動参戦権を条文に明記しろと要求したのですね。これは、ドイツがアメリカと本当に戦う羽目になったら、日本はすぐに参戦してドイツともにアメリカと戦えというもの。もし、これを認めたら日本は自動的にアメリカと戦う羽目になる。それでなくても日本は中国と戦って泥沼化。そんな状況でアメリカと戦ったら間違いなく日本は破綻する。

松岡も馬鹿じゃないから、松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、自動参戦の件は、条約本文には書かないで、交換公文、つまり個人的なプライベートな手紙に「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」と書いたのですね。それで自動参戦条項は事実上空文化したのです。これで、日本はアメリカとの戦いは一応避けられたのです。しかし結局、1941年の真珠湾攻撃で、松岡の苦労は台無しになるのですが。

また、松岡は日独伊だけでなく、ソ連も同盟に加わってくれることを期待しましたが、それは叶わぬ夢となりました。

一方の大島は、1940年12月に駐独大使に再任されました。一度はクビになったのに、また再任されたのは、ナチスとの個人的なつながりがあるから良いだろうと思われたからでしょう。1941年3月27日には松岡洋右外務大臣のベルリン訪問時には松岡・ヒトラー会談に同席したと言います。戦争が終わって、松岡も大島もA級戦犯になり、松岡は裁判の途中で病死、大島は終身刑になりましたが、1955年に恩赦が出て仮釈放。その後、自民党からも議員にならないかってオファーが来ましたが、大島は拒否。大島は日独伊三国同盟締結に動いたことへの責任を感じており、重大な過ちであったと自ら認めています。

しかし、一方でヒトラーへの心酔ぶりは晩年まで変わらなかったようで、「ヒトラーはいろいろ悪く言われるようだけでも、天才であることは間違いない」って評していたそうです。そんな大島も1975年に亡くなりました。享年89歳。




※ この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

また、こちらの本も参考にしました。




かつて、イギリスの首相だったチャーチルがアメリカが世界における役割について、印象的な言葉を残しております。以下、引用します。

我々は生涯に二度も運命の長い腕が大洋を超えて伸び、アメリカを戦いの最前線に招き入れた。ヨーロッパの災いが発生すると、その破滅的な猛威はアメリカにも及び、決して逃れられないことが証明される。アメリカ国民は世界的責任から免れることはできない。

私たちはほとんど予測できない激動の時代に生きているが、アメリカが富と権力において前進するたびに、この過程が強化されることは、間違いないだろう


今日のウクライナ情勢における、アメリカの動きを見るたびに、チャーチルは半世紀以上も前に、こうなることを言っていたのだから、慧眼だなって。チャーチルがこのような言葉を述べた背景を順を追ってお話しします。

アメリカは、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二度の戦争に関わりました。実は第二次世界大戦の時、アメリカ国内では厭戦気分が漂っていたのですね。第一次世界大戦にアメリカは参戦し、たくさんの犠牲者を出したのですね。戦争はゴメンだという意見が圧倒的に多かったのです。ちなみに、かのリンドバーグも戦争反対を唱えていたのですね。リンドバーグと言いましてもバンドの名前ではありませんよw、飛行機で世界一周をした有名なパイロットです。

当時、アメリカはイギリスのチャーチル首相から、ヨーロッパでナチスドイツが暴れ出し大変なことになっているから、助けて欲しいと矢のような催促をアメリカにしていたのです。しかし、ルーズベルト大統領は、本音ではイギリスを助けたいけれど、国内の厭戦気分を無視できなかったのです。1939年の世論調査ではイギリスの軍事支援を賛成する意見は、わずか16%足らずだったのです。それが1940年6月のナチスドイツのフランス侵攻、さらに同年7月にドイツがイギリス本国空爆、といったニュースを知り、アメリカ国民は衝撃を受けます。世論調査でもイギリスを助けるべきという意見が50%を超えたと言います。それでも、1940年にアメリカで徴兵制が導入されるや否や、国民の間で、それに反発する意見も大きかったのです。イギリスに物資や兵器を輸送するなどで支援するのは賛成だが、自分達が戦争に巻き込まれるのはゴメンだということでしょう。それが1941年12月の真珠湾攻撃で、アメリカ世論も戦争に参戦すべきが圧倒的になるのですが。結局、アメリカは二度の大戦に巻き込まれてしまったのですね。

二つの戦争が終わった後も、アメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と色々な戦争に関わっております。今回のウクライラでも、武器貸与法を77年ぶりに復活させました。77年前もルーズベルト大統領が、この法律でもってヒトラーと戦う姿勢を示しました。アメリカのバイデン大統領も、ロシアのプーチンをヒトラーと同一視したってことでしょう。また、ウクライナに世界中から義勇兵が集まっておりますが、アメリカからは5000人も集まっているというから、驚きます。かなりの人数ですね。アメリカは世界の警察をやめたといった矢先のウクライナ戦争ですから。チャーチルの言葉が今も生きているんだなって。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

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