History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

昭和天皇は軍部の暴走を止められなかった要因の一つとして日本人の国民性をあげていました。

先ず我が国の国民性について思うことは、付和雷同が多いことで、これは大いに改善の要があるとかんがえる。(略)かように国民性に落ち着きがないことが、戦争防止の困難であった一つの要因であった。将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、また宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う。


え?「付和雷同」の意味が分からないって?僕もうまく説明できないのですが、意味は、自分にしっかりした考えがなく、むやみに他人の意見に同調すること。ってところでしょうか。もちろん、自分の意見も持たず戦争にやみくもに賛同した人間も多かったことは事実です。ただ、戦時中にも結構いたのですよ、戦争をやめろって人が。議員の斎藤隆夫とか安倍晋三元総理の祖父である安倍寛とか。斎藤隆夫なんて軍部の妨害を受けながらも二位当選しているし、安倍寛もギリギリながら当選している。この選挙結果をみるにつけ、当時の日本人が皆が皆戦争に賛同するどころか、軍部のやり方に不満を持って、反軍部、反大政翼賛会の議員に投票する人も結構いたのですよ。だから日本国民皆が皆、付和雷同したわけじゃない。

しかし、そうした意見を封じてしまったのが、当時の軍部。当時の選挙なんてひどいもので、戦争反対を訴えた議員は露骨に選挙妨害をされたり、大政翼賛会から公認をもらえなかったり。そして戦争に反対する人間を憲兵をつかって弾圧したのですから。また言論人や文化人だって戦争に反対する人間には仕事がもらえなかったといいます。一方のアメリカは戦争に反対する人間でも、何とか飯は食えたといいます。そんな話を市川房江さんをされて嘆いていたっけ。逆に戦争を賛美したり政府をマンセーするような言論人はウハウハだったといいます。代表的なのは火野葦平ひのあしへい。火野葦平は戦後、自らの戦争責任を悔い自殺をするのですが・・・・ちなみに俳優の火野正平さんという方がいて、火野正平さんと火野葦平間違いやすいですが、まったく二人は血縁関係などなく、赤の他人同士です。

火野は中国の戦地に赴き、戦争マンセーの小説を書いたのです。それが彼の代表作『麦と兵隊』。火野は「愛する祖国の万歳を声の続く限り絶叫して死にたいと思った」と書いたほど。まさに今でいうウヨ作家。火野の成功を受けて結成されたのが従軍ペン部隊。林芙美子ら人気作家が名を連ねておりました。これは中国の戦地に赴いては、日本軍のちょうちん記事とか文章を書いていたのです。戦争で仕事が減っていた作家たちにとって、これはありがたい話だったのです。ペン部隊の作家たちは国から支度金として国から700円、今の価値でおよそ200万円支給されたというから驚きですね。危険な戦地に行くとは言え、戦争マンセー記事や小説を書いただけで200万もらえたのです。

麦と兵隊・土と兵隊 (角川文庫)
火野 葦平
KADOKAWA
2021-02-25



そういえば、9・11以降、アメリカは異様な雰囲気で、イスラムやアルカイダを戦争でぶっ潰せみたいな雰囲気だったそうですが、そんな中でもマイケル・ムーア監督はブッシュ大統領を批判し、戦争の愚かさを言い続けましたが、それで彼が干されることはなかったもんなあ。かたや日本は、落語家の桂歌丸さんが笑点で政治家の批判をたびたび繰り返したら、ある政治家から「あんまり批判するな」みたいに圧をかけられたといいますからね、民主主義の今でもこの調子だから、戦時中なんてもっとでしょう。

誰だって自分の命が惜しい。国民性というより、当時の政府の弾圧や締め付けがひどかった面が大きいと思います。


また「宗教心を培って確固不動の信念を養う必要がある」という天皇の御言葉。統一教会のことが問題になっている今では物議を醸しだしそうな発言ですね。信仰自体が悪いというより、家族の崩壊を招くほどはまり込んだり、他人まで巻き添えにして迷惑をかけたりするのが問題なんですよね。信仰を通して、心のケアになったり支えになったりする場合もありますし。仏教にしてもキリスト教にしてもも本来は哲学なんですよね。それを運用する人間の責任であり、また、それを悪用するのが問題なのであって。

※ 参考文献





また、この記事は『映像の世紀 バタフライ』を参考にして書きました。

戦争に反対する者の意見は抽象的であるが、内閣のほうは数字を挙げて戦争を主張するのだから、遺憾ながら戦争論を抑える力がなかった。


この昭和天皇の発言は、昭和21年に側近に語られたものです。時の内閣、近衛文麿はアメリカとの戦争に反対していたのです。しかし、その近衛の言葉は抽象的で、ただ戦争反対を唱えるばかり。今でいえば左派政党の戦争反対みたいな感じでしょうか。かたや開戦をとなえる軍部や関係者は資源の問題や勝算などを具体的な数字をあげて主張したのです。その数字がでたらめやゴマカシであってもよいのです。ともかく具体的な数字を言われると抽象的な主張をする人間は弱いです。ましてや軍部は声もでかいですからね、時に怒鳴り声をだして脅かしたりしたのでしょうね。もちろん、石橋湛山のように具体的な数字を挙げて戦争を反対する論者もいたのですが、当時の日本では石橋の意見は聞き入れられなかったのです。


元来軍人の一部は戦争癖がある。軍備は平和のためにすると口にしながら、軍備が充実すると、その力を試してみたくなる悪いくせがある。これは隣人愛の欠如、日本武士道の退廃たいはいである。


昭和天皇は国防を非常に大切に考えており、それは戦後になっても変わらなかったのです。ただ、旧軍のやり方には腹に据えかねていたところがあり、軍部それも上層部がいかに武士道がわかっていなかったと嘆いていたのですね。

4月29日、今日は、なんの日でしょう?エイプリルフール?それは4月1日でしょうW「みどりの日」?違います。かつてはそんな風に言われていた時期もありましたが、いまは「昭和の日」と言います。昭和の日があって、明治の日、大正の日、平成の日、令和の日がないのはなぜなんだ?って僕はおもうのですがw、4月29日は昭和天皇の誕生日で、昭和のころは天皇誕生日でした。昭和の日と言われるようになったのは、昭和が戦争、復興とまさに激動の時代で、そんな時代を生きた先人たちをたたえようという意味が込められております。さて、昭和天皇は生前に多くの御言葉を述べられましたが、ツイッターとかsnsで特に物議を醸しだしているのが、この発言。



伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番良いと思ふ。(中略)万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。

(1945年7月31日、本土決戦も覚悟しなくてはならなくなり、木戸内大臣に語った言葉。)

戦時で敗戦が濃厚になり、本土決戦が迫った時の昭和天皇の発言です。この言葉を額面通りに受け止めると国民の命より、三種の神器のことを心配したようにもとれますし、もし本当に国民の命よりも三種の神器のほうを心配したというのなら天皇はひどい人だということになります。ただ、この発言をもって天皇を非難するのはちょっと待て!って僕はおもうのですね。側近に三種の神器のことを聞かれたから、そう答えただけかもしれないし。それと三種の神器がすげえ霊力があって、それが失われたら日本が滅んでしまうと天皇はマジで信じていた可能性もあります。実は三種の神器は天皇すらも直接見ることができず、それだけに神秘性があるのですね。

それに昭和天皇が国民のことを顧みていないといえば、そうでもありません。戦以下終戦間際の発言を。

皇室と人民と国土が残っておれば国家生存の根幹は残る。これ以上望みなき戦争を継続すれば元も子もなくなるおそれが多い。

自分としては国民をこれ以上苦しめることは到底しのびえない。また国土を焦土と化すことは、ご先祖に対して申し訳がない。

この際和平の手段に出てももとより先方のやり方に全幅の信頼に置きがたいことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。
(いづれも昭和20年8月の御前会議での発言)

争をするより、復興に向け頑張りましょうということを御前会議で話したのです。ただ、そう思うのなら、もっとはやく聖断をくだすべきだったと僕はおもうのですが。いづれにせよ、これらの御前会議の発言を見る限り、国民よりも三種の神器が大事だとは思ってはいないのはないかと。昭和天皇は「国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが」と言ったうえで、終戦の聖断を下したのです。この発言を話した後、天皇は涙を流されたといいます。会議に参加した軍人や重臣たちはみな号泣したといいます。さらに終戦から30年後の昭和50年に昭和天皇陛下はアメリカのNBCテレビの取材を受けました。その時、記者から終戦の動機について質問をされ、このようにお答えになりました。

報告は聞いたが、最後の御前会議で意見がまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。同機は、日本国民が戦争による食糧不足や損失にあえいでいたという事実や、戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。


余りに戦果が早く挙がり過ぎるよ
(真珠湾攻撃以降、緒戦を勝利する日本軍の知らせを受けて)

ガダルカナルはなんとかせねばならぬではないか。ガ島は持てる見込みか。
(ガダルカナル島での戦いでの苦戦を受けて)

こんないくさをして「ガダルカナル」同様のことをして、敵の志気を揚げ、中立・第三国は動揺、支那はつけあがり、大東亜圏内に及ぼす影響も大きい。何とかして何処かの正面で米軍をたゝきつけることは出来ぬか。
(ミッドウェー海戦の敗戦、アッツ島での敗北を受けて)

何れの方面も良くない。米をピシャッとやる事は出来ぬか。(中略)一体何処でしっかりやるのか。何処で決戦をやるのか。今迄の様にジリジリ押されることを繰り返すことは出来ないのではないか。
(戦況がきびしくなって)


いづれも昭和天皇の戦時中の言葉です。最初のころは、日本軍も好調で初戦で勝利したのですが、ミッドウェーでの戦い、それからガダルカナルの戦いと負けが続き、次第に日本軍も追いつめられてきます。そんな日本の状況にいら立ちを隠せない昭和天皇。特に「ピシャッ」という言葉が出てくるあたり、相当なイラつきが見られます。言葉だけ拾うと昭和天皇が好戦的で危険な人物とも取れるかもしれませんが、当時の日本軍の戦いぶりを、ちょうどワールドカップの日本代表やオリンピックでの日本選手団の活躍のような感覚で昭和天皇は見ていたのだと思います。というか、当時の日本人のほとんどがそういう感覚だったのかな。なにしろ、昭和天皇も当時の日本人も本当の戦争の恐ろしさや悲惨さを知らないから。やがて、本土が空襲にあい、その戦争の悲惨さが身に染みるわけなのですが。

とはいえ、庶民に言葉と天皇のお言葉では、同じセリフでも重みが違いすぎます。こうした天皇の言葉は軍の方針にも影響を及ぼしたはず。天皇の戦争責任が戦後問われましたが、こうしたセリフを聞く限り、全く責任がないとは言えないのではないかって。しかも、昭和天皇は軍事の知識があったといいますし。しかも、昭和天皇はだいたい戦地の現状を把握していて、どこどこで戦艦が沈んだとかを知っていたといいます。ただ、昭和天皇は100パーセント把握していたわけじゃなく、改ざんされた報告を真に受けた可能性もあります。そして実際に戦地に赴き、現場の状況を生で見たわけじゃないのですね。もし昭和天皇が実際に戦地に赴いていたら、発言も変わっていたかもしれない。

ただ、昭和天皇は良くも悪くもリアリストでした。平成上皇さまのような絶対平和主義者とは違います。戦後、アメリカと講和条約が結ばれたとき、このような言葉を述べられております。

明治大帝の孫の時代に、海外の領土をすべて失ったことは大変な苦痛だ。



講和条約は、旧日本の領土をすべて手放せというものでした。そのことが昭和天皇にとって苦痛だと。昭和天皇が戦時中、あれだけ軍部を発破をかけたのも、軍部に脅かされたというより、これで負けたら日本の領土をすべて失ってしまい、国益を大きく損じてしまう、そう考えたからだと思われます。また、講和条約について昭和天皇はこのような言葉も述べられております。


有史以来未だかって見たことのない公正寛大な条約「講和条約」が締結せられた。日本安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである。




講和条約はただ、仲良くしましょうという意味合いではなく安保のことも盛り込まれておりました。それについて、慶賀すべきという評価を与えたのはすごい話です。もちろん、この言葉は内内に述べられた言葉なので、マスコミに取り上げられることはありませんでした。

防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことはまねせず、いいところは取り入れて、しっかりやってほしい。


これも戦後に昭和天皇が述べられた言葉です。「国の守りは大事」という発言は今の保守派が聞いたら泣いて喜びそうですね。平成上皇だったら絶対言わなそうな言葉です。それだけ、昭和天皇は国防を重要視していたし、国益というものを考えておりました。リアリストだからこそ、昭和天皇は右にも左にも動き、だからこそ、左だけでなく、右にも時々たたかれてしまったのでしょうね。


*参考文献 






「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」


1940年(昭和16)9月27日、日独伊三国同盟が結ばれました。それは近衛内閣のころで、外相だった松岡洋祐が積極的に進めたのです。この時、国民はたいそう喜んだのです。当時の日本は反米・反英感情が強く、ドイツは心強い味方だとおもったのでしょうね。しかし、天皇陛下をはじめ、一部の政治家はドイツのことを信用しておらず、その後のナチスの動きに中所くしていたほど。天皇陛下は、ナチスドイツがどんな国か、ヒトラーがどんな人物なのかをすでに見抜いていたのかもしれない。しかし、当時の近衛文麿や松岡洋祐はヒトラーにぞっこん。

戦後になって、天皇は松岡のことをぼろくそに言います。

南部仏印進駐は初めから之に反対してゐた松岡は二月の末に独乙に向かひ四月に帰ってきたが、それからは別人のように非常に独逸どいつべいきになった。恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる。現に帰国した時に私に対して、初めて王侯の様な歓待を受けましたと云って喜んでゐた。一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人のたてた計画には常に反対する、反条約などは破棄しても別段に苦にしない、特別な性格を持っている。


昭和天皇が松岡のことを相当嫌っていたことがうかがえます。







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