history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

活きる 特別版 [DVD]
コン・リー
ハピネット・ピクチャーズ
2003-11-27





1 チャン・イーモウの『きる』


 先週、中国映画の巨匠きょしょう、張 芸謀 (チャン・イーモウ)監督かんとくの映画『活きる』を観ました。ビデオ屋で半額セールをやっていたので、ビデオ屋で映画を借りてきたのです。

あらすじは見てのお楽しみですが、命の尊さと家族や仲間が助け合う事の大切さを見事にえがいた作品です。

映画に出演したコン・リーさんは本当に演技のうまい人だと思いました。夫を健気けなげに支えるつまを見事に演じています。

その夫というのが、大変な遊び人でバクチで家を破産させてしまいます。

が、夫は影絵かげえの才能があり、そのおかげで(収入はわずかながらも)なんとか妻と子供を養っています。貧しいながらも幸せな人生を送ってきた家族に次々と不幸がやってはきますが・・・

さて、この映画は40年代から60年代までの中国が描かれていて、中国の歴史を知らない人が見ても感動する映画です。

今日はこの映画と中国の歴史を、ちょっと長くなりますが、オーバーラップしてみます。


2 50年代の中国 大躍進運動だいやくしんうんどう


 1949年に共産党が国民党との戦争に勝ち、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくを建国しました。貧しい労働者のための理想的な国としてスタートを切りました(はずであった)。

映画にも共同食堂(おそらく無料)で人々が、もくもくと食事をしているシーンが出てきます。貧乏びんぼうで食べるものに困っている人には、こういった施設しせつはありがたいかもしれません。その一方で地主などの金持ち階級がひどい弾圧だんあつを受けたそうです。

50年代の後半に中国政府は大躍進政策だいやくしんせいさくを行いました。

この映画では自転車やナベなどの鉄製品をあちこちから集めて、それらをかして製鉄をしているシーンが出てきます。まるで戦中の日本人のように、人々はる間も惜しんで鉄を作ったが、そんな苦労もむなしく出来たのは小さな鉄でした。

とても実用化できるような代物にはみえないのですが、市民達はとっても満足そうでした。そんな場面も映画に登場します。

3 60年代の中国 文化大革命ぶんかだいかくめい

 60年代に文化大革命が起きました。

このとき、小平(とうしょうへい)たちは共産主義国家の中国でも資本主義のよいところを取り入れようとしたが、毛沢東(もうたくとう)や4人組らは小平たちを走資派そうしは(資本主義者の手先)として糾弾きゅうだんしました。権威主義打倒けんいしゅぎだとうというのもこのころいわれていたことです。

子が親を学生が先生を糾弾されたり、影絵や京劇きょうげきといった中国の伝統芸能もこの時代に弾圧だんあつされました。

この映画にも、看護学校の女生徒たちが教授をリンチし、病院から追い出してしまい、看護学校の生徒が教授の代わりに医者をやっているというおかしな光景が出てきます。






オマケ 

この映画の主人公の特技である影絵の動画が見つかったのでご紹介します。



活きる
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奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)
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ヘレン・ケラーの偉大いだいさは知っていましたが、彼女が大変な親日家しんにちかだったことは最近まで知らなかったです。

自分の家の中を日本風にしたり、庭にとうろうを置いたり、日本犬までったりしたそうです。ほかにも温泉も好きだし、さしみも日本酒も愛したそうです。

へレンを日本にまねいたのは岩橋武夫。岩橋は長くヘレンと交流をした人物です。その岩橋とともに厳島神社(いくつしまじんじゃ)にもおとずれたそうです。それは恩師のサリヴァン先生を亡くして間もないころだったそうです。

厳島神社いくつしまじんじゃで思い出しましたが、僕も厳島神社いくつしまじんじゃに訪れたことがあります。よいところですよ。まるで竜宮城みたい。



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さて、厳島神社いくつしまじんじゃのそばの宿舎についた岩橋は、ヘレンに「ヘレン、今日はサリヴァン先生をおまつりしましょう。」といったそうです。

夜になって、厳島神社いくつしまじんじゃにはたくさんの数の灯ろうに灯が灯りました。その光景が、秘書の通訳によって手を通して伝えられるとヘレンはなみだを流して、亡きサリヴァン先生への感謝の意をこめて追悼(ついとう)をしたそうです。

ヘレンには肉眼にくがんでは、とうろうやの厳島神社いくつしまじんじゃ風景は見えなくても、心の目でみることができたのです。

彼女は人一倍感性が豊かな人でした。だからこそ、「私は見えないためにかえって、強く日本の精神にふれることができた」と語ったのかもしれません。





※参考文献

『そのとき歴史が動いた』(NHK取材班編)


(この記事は2014年に加筆修正をしました)

下田に行ったとき、僕がどうしても訪れたかったスポットが今日ご紹介する玉泉寺(ぎょくせんじ)です。このお寺は我が国最初のアメリカ総領事館でした。




(玉泉寺の門)




(玉泉寺のお堂)




(アメリカの領事館跡だと書かれた石碑)




(アメリカ元大統領のジミー・カーターも、玉泉寺をおとずれた)

1 日本最初の領事館&屠殺場(とさつじょう)

 玉泉寺は領事館として利用されていましたが、我が国初の屠殺場とさつじょうがあったところだそうです。

ちなみに、屠殺場とさつじょうとは牛やブタを殺して、食肉にするところです。

おそらく、ハリスをはじめとしたアメリカ人たちのために作ったのでしょう。当時の日本人は肉を食べるなんて習慣は無かったのですから。

このお寺は黒船の乗組員のお墓やロシア船ディアナ号の乗組員のお墓もあります。横浜にも外人墓地があるけれど、ここの寺の外人のお墓のほうが古いようです。(まちがっていたらごめんなさい)



さて、このお寺の境内にハリスが残した言葉が書かれた碑文ひぶん(※1)がありました。その碑文には、

※1 石碑(せきひ)に刻みこまれた文章


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この記事は2009年9月に書いたものを加筆修正しました。

長野県の穂高にあるわさび園は僕がちっちゃい頃から何度も訪れているから(少なくとも5回は訪れている)、来る度に「また来たか」と思います。でも、ここを訪れないと信州安曇野に来たって感じがしないのです。
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ここには伝説があります。時は平安時代の初期、桓武天皇の時代。穂高の八面大王と呼ばれる豪族が安曇野地方を支配していたそうです。それを朝廷が坂上田村麻呂を遣わして、穂高の大王を退治したって話。

僕は子供の頃、この八面大王というのが悪い奴だと思っておりました。だって八面大王というネーミングからして怖いイメージがするしw、それに八面大王は民に迷惑をかけた悪い奴だって話も聞いたことがあります。





しかし、今回説明看板をじっくり読んでみて、本当に悪いのは朝廷じゃないかって思われました。むしろ安曇野の地を守る勇者のようにも感じられました。

一方で、朝廷は東北平定の足がかりの為にも信州の地を押さえておきたかったのです。朝廷にも八面大王にもそれぞれ言い分があったのでしょう。ただ、朝廷が貢物を要求したり、無理難題を押し付けたりと強権的なやり方がまずかったのかもしれません。

八面大王は神通力の持ち主だったと信じられていました。田村麻呂がせっかく退治したとしても、また蘇ってくるのではないかと思い、死体を切り刻んでバラバラに埋めたそうです。

大王の耳を埋めたのが(長野県穂高にある)有明の耳塚、首を埋めたのが筑摩神社の首塚、そして胴体を埋めたのが穂高の大王わさび園だといわれています。

大王が立て篭もったといわれている祠。僕も祠の中に入ったのですが、祠に入っていたとき、土砂崩れして、外に出られなくなるのではないかとハラハラしていましたw ↓ 

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(大王の見張り台と呼ばれる築山)

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(大王の見張り台と呼ばれる築山の頂上にあった大きな石)


その安曇野もいまや長閑な田舎の風景そのものです。とてもそんな争いがあったとは思えません。

それから、わさび園は黒澤明さんの映画のロケにも使われました。その黒澤さんの映画の題名は『夢』

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映画『夢』にもでてきた水車小屋の風景をいくつかご紹介します。風情があっていいですね。昔の日本では水車のある風景なんて珍しくなかったのかもしれないが、今ではすっかり珍しくなりました。寂しい事です。


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時は五大十国の時代。日本で言えば平安時代ごろです?当時の中国はいくつかの国に分かれていて争っていました。いわゆる戦国時代のお話です。

その時代に李克用(りこくよう)という大将がいましたが、病気になってしまいます。李克用は息子の李存勗(り そんきょく)を呼び寄せ、三本の矢を見せました。

李克用の三人のライバルをこの矢でたおせという遺言ゆいごんを残したのです。三人全員を倒せなくても、李克用の宿敵、朱全忠(しゅぜんちゅう)だけでも息子に倒してもらいたかったのかもしれません。

三本の矢と聞いておどろきました。

日本で「三本の矢」といえば毛利元就(もうりもとなり)が有名ですが、中国にも似たような話があったとは。

実は、この話、歴史マンガで知りました。歴史マンガもバカにできませんね。

それからしばらくして、朱全忠(しゅぜんちゅう)は自分の息子に殺されてしまいます。

その混乱に乗じて、李存勗(りそんきょく)はしゅ一族が治める後梁こうりょうめこみました。後梁を滅ぼした李存勗は後唐こうとうという国を建国しましたが、李存勗(りそんきょく)は政治に関心をもたずゼイタクばかりして遊んでいました。

李存勗(りそんきょく)は人々のウラミを買い殺されました。それで後唐は滅亡めつぼう。宿敵の朱一族を倒した事で油断したのかもしれません。



※参考文献 『学習漫画 中国の歴史 5』(集英社)

中国の歴史〈5〉宋王朝と北方民族の興隆―五代十国・宋・遼・金時代 (集英社版・学習漫画)

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