history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

今日は川島芳子(かわしまよしこ)と彼女をめぐる男たちのお話。

今回のお話ははっきり言って長いです。「トイレの神様」よりも長いかもw?


1 川島浪速(かわしまなにわ) 
 芳子の養父ようふの川島浪速(かわしまなにわ)はおこりっぽい人で芳子を怒鳴どなったり、手を上げたりしていたそうです。芳子と性行為をしたというウワサもありますが、そこまでははっきりしません。いづれにせよ、芳子にとってはあまりよい養父とはいえません。

でも、後年になって浪速が70才になったときのおいわいパーティーが開かれるのですが、そのパーティーも芳子が中心になってとりおこないました。自分を育ててくれた人だという思いも芳子の中にあったのかもしれません。

ところで、川島浪速とはどんな人物なのでしょうか。彼は信濃国いまの長野県の生まれ。中国語を学び、日清戦争・義和団の乱に陸軍の通訳官として従軍したそうです。明治34年(1901年)清朝の依頼により北京に警務学堂を創設し、警察官の養成にあたったそうです。大正元年(1912年)辛亥しんがい革命により清朝が滅ぶと、粛親王しゅくしんのうの旅順脱出に協力しました。生涯にわたって満蒙つまり満州とモンゴルの独立を主張し続けた人物です。大きなロマンを持った人物ですね。芳子にやったことは問題あったけれど、男として生まれたからには何か大きなことをしたいものですね。

2 初恋はつこいの人 山家亨(やまがとおる)
 芳子の初恋の人である日本軍の山家亨(やまがとおる)との仲も長続きしなかったのです。山家亨は、信州の松本にあった川島家に度々出入りしていました。そうして芳子と仲良くなりました。若かりし頃の山家は初心うぶでためらい勝ちで、ほんとうに好青年って男でした。しかし、山家の上司から「軍人として生きるか、軍をやめて女を取るか、どっちにしろ!!」と言われてしまい、山家は信州松本から中国へ転勤してしまいます。

ところで、芳子は初恋の人の山家亨の話には続きがあります。芳子は中国で山家と再会します。山家の印象は芳子と初めてあったときと変わっていました。山家は「王嘉亨」(読み方わかりません。)と名乗り、軍の特務機関とくむきかんという、決して表に出ることのない世界の人間になってしまったのです。さらに中国の有名女優じょゆう達ともご乱交らんこう(※1)。

いわば、バンプの歌の世界に出てきそうな青年が、「ゴッドファーザー」の愛のテーマが似合いそうなおそろしい親父に変わってしまったのでしょう。月日はこうも人間を変えてしまうのか・・・

その後、山家亨は国家反逆罪こっかはんぎゃくざい機密きみつろうえい罪(※2)、麻薬まやくに手をだしたなどの容疑ようぎでタイホされてしまいます。戦後になって山家は出版の仕事を始めたのですが、二百万円の不渡ふわたり手形(※3)を出し、警察けいさつわれ、昭和25年に自殺したといわれています・・・悲しい話です・・・

ちなみに、絶世ぜっせいの美人の李香蘭(りこうらん ※4)満洲映画協会まんしゅうえいがきょうかい(※5)に入れたのも山家亨の働きかけがあったようです。李香蘭こと山口淑子さんは、山家のことをお世話になったとほめていました。

それから川島芳子は自分のかみを切ったそうです。髪を切るなんて男の人にとっては、どうって事がないかもしれませんが、女の人にとって大変な事なのです。しかも、単に短くしたのではなく、坊主頭にしてしまったのです。

美容室で髪を切ってもらうのとワケがちがいますね。僕だっていきなり自分のカノジョが髪を切ったらビックリします。一体カノジョに何があったのかと思ってしまいます。

芳子が髪を切った理由は、山家亨との失恋しつれんだとか、養父川島浪速のDVだとか、清朝復興のためだとか、いろいろ説があるが、はっきりした理由はわかりませんが、このころから芳子は髪を短くし、男性のような衣装をするようになります。どんな理由かわかりませんが、女を捨てる覚悟を芳子は・・・でも、芳子は完全に女を捨てきれなかったのですね。実際芳子は結婚もするし、ほかにもいろいろな男性との関係を結びます。芳子の男性遍歴はまた次回にお話しします。


3 カンジュルジャップ

 川島芳子(かわしまよしこ)はカンジュルジャップという男性と結婚けっこんしました。カンジュルジャップとは蒙古もうこ(モンゴルのこと)の将軍バプチャップの次男で、芳子とカンジュルジャップは幼馴染おさなじみだったのです。芳子はジャップについては特に恋愛感情れんあいかんじょうはなかった様ですね。かといってきらいでもなかったようです。芳子とカンジュルジャップの結婚生活も数年は続きました。けれど芳子は不満ふまんいだいておりました。

芳子自身の言によれば「およめさんになって2年半(中略)、おとなしい、あきらめた、つらいおよめさんになって台所してゐました」とのこと。芳子(満州族)とカンジュルジャップ(モンゴル族)の文化のちがいもあったし、カンジュルジャップの家族ともうまくいかなかったようです。

カンジュルジャップ本人は、やさしい夫で芳子の事を気にかけていたそうです。「へえ〜いいダンナさんじゃないか」と僕は思うのですが、それが芳子にとっては物足りなかったのかもしれません。何しろ、芳子はバービーボーイズの歌じゃないけれど、やさいしい男だけは物足りないという人です。家庭におさまるタイプじゃなかったのでしょう。

芳子の結婚生活けっこんせいかつはおよそ3年ほどで終わってしまいました。とはいっても、芳子とカンジュルジャップは離婚りこんしてからも関係は続き、カンジュルジャップが17さいの女性と再婚さいこんした時、芳子が結婚式場けっこんしきじょうに現れ、おいわいをしたそうです。

川岛芳子与甘珠尔扎布结婚典礼

(川島芳子とカンジュルジャップの写真。ウィキペディアより。右の男性がカンジュルジャップ。おとなしそうだけど、よさそうな人ですね。) 







※1 男女が集まって、それぞれ不特定の異性といやらしいことをすること。
※2 秘密にしていたことをもらすこと。人にしゃべること。
※3 小切手 こぎってや 手形 の 支払いをことわられること。 支払しはらい人である 銀行から支払いをことわられた小切手を, 不渡ふわたり小切手という。
※4 戦前に活躍した女優でもあり歌手。本名は山口淑子さん。戦後はタレントや政治家になる。

※5 かつての満州国にあった映画会社。日本にとって有利な政策を行うために政府の援助えんじょによってつくられた半官半民はんかんはんみんの映画会社。日本ってこんなにいい国なんだぜとアピールするような映画がたくさん作られた。




男運のない川島芳子 中篇


※ 参考文献
李香蘭 私の半生
山口 淑子
新潮社
1987-07




川島芳子(かわしまよしこ)のことはこれまでテレビで何度も取り上げられたけれど、歴史秘話れきしひわヒストリアで初めて知った事も少なくありません。

(番組を見て)特におどろいたのが、川島芳子が歌を歌っていたという事。曲名は「十五夜じゅうごやの娘」。

とてもシンプルな歌詞です。



http://www.youtube.com/watch?v=A5nwJCmDZTU
(↑彼女の歌声)



今日は戦時中の女スパイだった川島芳子(かわしまよしこ)がなんと中華料理屋の女将おかみだったって話。僕もその話をきいてオドロキましたね。



1 天津にあった川島芳子の店

 芳子の中華料理屋があったのは天津てんしん。屋号は東興楼(※1)。芳子が中華料理屋を開いた理由は、芳子と関係があった多田駿(ただはやお)という人物のすすめがあったからです。店の開業資金も多田が出したそうです。

その店のかまえは、バーミヤンの様な親しみやすい雰囲気ふんいきではなく、夾竹桃(キョウチクトウ)にかこまれたチャイナ風の庭もついた高級な感じの店で、使用人はボーイだけでも4、50人はいたそうです。

ボーイ達をたばねる女将の芳子はボーイッシュではなく、地味なチャイナ服を身にまとっていたそうです。時に和服や洋服を着てかいがいしく接客をしていたそうです。

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(夾竹桃の花)

※1 「とうこうろう」って読むのかな?読み方はわからないけれど昭和12年開業であることは確か。


2 東興楼の客層

客層は、軍の関係者から(中国に進出している)日系企業にっけいきぎょうのサラリーマン、そして地元天津の住民と言ったところで、けっこう繁盛はんじょうしていたようです。

芳子は面倒見がよく、あまりお金のない日本兵にはサービスしたそうです。

一方で、お金のありそうな役人や、成金みたいな客からは遠慮えんりょなく高額の料金をぶんどったそうです。

店には女将の川島芳子目当てにおとずれる客も多かったようです。当時の川島芳子といったら大変な有名人で(「男装の麗人だんそうのれいじん」)、それこそ今の嵐やAKB48に負けないくらいの人気があったようです。それと、芳子は気もくし、話もうまかったから人気もありました。

しかし、芳子もこれまでの気苦労がたたったのか体調が優れない日々が続き、店の経営も使用人に任せるようになってしまいました。

3 東興楼のボーイの正体
 ところで、東興楼の働いているボーイ達は、実はみな安国軍あんこくぐんの兵士だったのです。安国軍とは、日本に帰順きじゅんした中国人兵のことで、多田が芳子にその兵隊を預け、芳子は兵隊たちの司令官になったのだ。要するに芳子親衛隊しんえいたいなのでしょう。

この安国軍は戦争のときは戦ってもらうけれど、いつも戦争があるとは限りません。それで安国軍のメンバーは戦争がないときは農業をやったり、都会に出て商売をやっていて、いつ戦争になってもいいように備えていたのです。安国軍の一部は芳子と一緒いっしょにこの中華料理店で働いていたのです。




 ※ 参考文献
愛新覚羅 王女の悲劇―川島芳子の謎
愛新覚羅 王女の悲劇―川島芳子の謎
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川島芳子はジャンヌ・ダルクにあこがれていたそうです。そう中世ヨーロッパで起きた100年戦争で活躍かつやくしたフランスの聖女です。

学生時代、彼女はノートに「ジャンヌ・ダルク」という文字であこがれは相当なものだったようです。

川島芳子がジャンヌ・ダルクにあこがれたきっかけはジャンヌ・ダルクの伝記です。芳子はこのジャンヌ・ダルクの伝記を夜10時ころまで読んでいたそうです。

女だてらに祖国そこくのために戦ったジャンヌ・ダルクがカッコいいとおもったのでしょう。清朝復興しんちょうふっこうの夢を(父親から)たくされた芳子は、ジャンヌ・ダルクと自分を重ね合わせたのかもしれません。

ある日学校で、芳子はジャンヌ・ダルク気取きどりで「私に三千の兵隊があったら、シナをとって見せるんだけれども」だれかれの別もなく言いふらして得意になっていたそうです。

それで芳子のクラスメートが「川島さん、あんた女のくせにシナを取るなんて、チャンチャンボーだって、女なんかに負けはしないわよ」と芳子に語ったそうです。

すると芳子はいかり出して、そのクラスメートにビンタを食らわせたそうです。

「私のジャンヌ・ダルクの夢をぶちこわしたのもしゃくだったが、チャンチャンボーという言葉も気に入らず」と芳子は思ったそうです。

チャンチャンボーとは当時の日本人の中国人をバカにした言葉です。日清戦争、日露戦争にちろせんそうと数々の戦いに勝利し、列強れっきょ>の仲間入りをした日本は中国を見下していたのでしょう。


いつかはジャンヌ・ダルクのようになりたいとおもった芳子。大人になった芳子は女スパイとして大活躍だいかつやくをしました。祖国復興そこくふっこうのために戦いました。まさに東洋のジャンヌ・ダルクです。

しかし、祖国のために戦ったジャンヌ・ダルクの最後は本当に不幸だった(処刑しょけいされた)のは歴史が証明するとおり。川島芳子もジャンヌ・ダルクと同じように処刑をされてしまいます・・・

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今日は、川島芳子(かわしまよしこ)が川島浪速(かわしまなにわ)の養女になり、日本に来るまでのお話をします。芳子が生まれたのは1907年。それで、日本にはじめてきたのが芳子が7〜8才のころだそうです(1915年)。

川島芳子の父親は粛親王善耆(しゅくしんのうぜんき)。彼は日本の明治維新めいじいしんを高く評価し、親日派と言われています。

その一方で清朝復活を夢見ていて、その夢をむすめにたくそうとしていました。粛親王善耆は日本人の川島浪速と出会います。川島浪速は、信州出身の大陸浪人(※1)で満蒙独立(※1)を願っておりました。

粛親王(しゅくしんのう)は川島浪速と仲良なかよくなり、川島浪速の元へ芳子を養女として送り込みました。浪速は子どもがいなかったので、たいそうよろこんだといいます。

粛親王がこのようなことをしたのは、芳子を日本で教育をさせ、日本と中国のけ橋になってもらいたくて養女に出したのだと思われます。

芳子は生まれながらにして清王朝再建という重責じゅうせきを背負わされていたのです。

なんとしても清朝を再建させたいと願う親父の気持ちもわかりますが、小さくても幸せな人生を娘にさせてあげればいいのにと思ってしまいました。

芳子は、わずか7才で住みなれた中国の地をはなれ、見ず知らずの日本へ行くハメになりました。

大の大人だって住みれた土地から離れるのはさびしいのに、ましてやおさない芳子にとっては本当につらい事だと思われます。芳子にとってもつらいことですが、芳子の母親もホントにつらかったと思います。

そうして芳子は日本での暮らしが始まったのですが、あるおばさんが、まだ幼い芳子に「あなたのお国はどちら?中国かしら、日本かしら」という質問をしたそうです。このおばさんは川島浪速の秘書ひしょであるAという人物の奥さんです。何気ない会話ですが、心なしか人種差別をしているような、そんな悪意さえも感じられます。

その時、芳子は少し考えて「お母様のおなかの中」と発言しました。

その芳子の返答に、おばさんは「利発りはつな子だ」と感心したそうです。でも、僕は「おなかの中」としか答えられない芳子が気のどくでなりません。中国人と日本人の間を生きる人間の苦しさも感じられました。



※1  日本の大陸進出にかかわった民間活動家をいう。中国大陸を活動の舞台ぶたいとし,日韓併合にっかんへいごう満州国建設まんしゅうこくけんせつには,その政治の裏舞台うらぶたいで一定の役割を果した

※2 辛亥革命しんがいかくめい期から日本が満州やモンゴルを中国の主権を無視し,勢力圏せいりょくけんとすることをはかった運動。軍部が中心となり,この地における日本の特殊権益とくしゅけんえき確保かくほすることを目的として行われた。


※ おまけ
長野県松本市のシンボル、松本城の動画を。



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