history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

前回は悲劇の人マリー・アントワネットのお話をしましたが、今日は彼女の母親であるマリア・テレジアがコーヒーが好きだったというお話をします。

マリア・テレジア(1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、オーストリアの女帝じょていと呼ばれた人物です。

マリア・テレジア

(マリア・テレジアの肖像画しょうぞうが いかにもやり手ババアって感じw)

1750年ごろから、ウィーン貴族の間では、ミルク、生クリーム、香辛料こうしんりょうさらにアルコールが入ったコーヒーが飲まれるようになったそうです。マリア・テレジアもこのコーヒーを愛していたそうです。

さらにリキュール入りのコーヒーがウィーンではやるようになりますが、それはマリア・テレジアのおかげです。

1747年、それまでおたがいいに対立していたウィーンのカフェ店主とアルコール店主の組合を、マリア・テレジアは和解させました。それ以来、カフェでも、アルコールの取りあつかいが許されるようになり、リキュール入りのコーヒーが流行はやりだしたのです。

その代表といえるコーヒーが「カフェ・マリア・テレジア」。温めておいたコーヒーカップに、モカ・コーヒーを注ぎ、ここに温かいオレンジ・リキュールやブランデー、砂糖をいれ、さらに生クリームを加えたものです。



今日でもこのコーヒーは、ウィーンの多くのカフェのメニューで見られるそうです。

男顔負けの政治をおこなったマリア・テレジアも晩年は公務から解放され、のんびりとティータイムを楽しんだそうです。マリア・テレジアはシェーンブルン宮廷きゅうてい庭園内の中にはな屋敷やしきをつくり、そこに時々こもってはコーヒーや紅茶を飲んだり、お菓子かしを食べていたり、読書を楽しんでいたそうです。また、ここで、心配の種である愛娘まなむすめマリー・アントワネットにも手紙を書いたりしたそうです。


(カフェ・マリアテレジアの作り方)



※ 参考文献


ハプスブルク家のお菓子―プリンセスたちが愛した極上のレシピ (新人物文庫)
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「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」という番組があり、番組で戦国武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と山内一豊(やまうちかずとよ)のどちらが日本を救うかという話がありました。

番組では、山内一豊のほうが日本を救えるという意見も多かったようです

長宗我部元親は人の言いなりにならない、自分の実力を信じるという良くも悪くも戦国時代の申し子みたいな人で、一方の山内一豊は忠義の人で、コツコツと実績を積み上げる努力家でした。

ですから、一豊の生き方のほうが日本人の感性にあっていると思うし、最終的に子孫を残すことができたことも大きい。だから、山内一豊のほうが日本を救えるという意見が多かったのだと考えられます。(長宗我部は息子の代でほろんだ)

私の意見としましては、長宗我部と山内のどちらかといわれたら、長宗我部を選びます。

長宗我部は、元々は土佐の一国衆にすぎなかったのですが、長宗我部元親は、軍政改革を行い、普段は農民だが、戦になったら武器を持って戦う農兵たちを組織化しました。農作業をしている時も、常に武具を田畑のかたわらに置いていたため一領具足イチリョウグソクというものです。そうした軍事改革が功を奏し、長宗我部は土佐一国を手中に収めたのです。土佐だけに飽き足らず、伊予いよ阿波アワ讃岐さぬきを攻略し、天正13年(1585)には四国統一を成し遂げました。

山内一豊は、たしかにマジメで上司の言うこともすなおに聞き、また戦でも矢を顔に打たれても屈しない勇猛ゆうもうさを持っているのですが、日本を救うとなるとやや物足りない気もします。

平時のとき、たとえば元禄時代げんろくじだいだとか、昭和40年代〜50年代のような安定した時期ならば、山内のようなリーダーが良いと思うのですが、乱世の日本を救うにはある程度、にくまれ役を買って出るような人のほうがいいと思います。

もちろん、マジメでコツコツやる人は学校で先生にもほめられるし、会社でも必要なキャラだと思います。


だけど、山内一豊は、土佐とさの旧領主の長宗我部の残党をのけ者にしたのです。(山内家と長宗我部の残党がケンカしたから)

山内家家臣を上士じょうし、旧長宗我部氏の家臣を下士かしとした差別的構造も発生してしまいました。この構造は幕末になっても続いて、下士出身の坂本龍馬さかもとりょうまたちもずいぶん苦労するのです。

織田信長は元親をあまり高く評価していなかったようですが、元親が秀吉よりも早く生まれていたら、おもしろいことになっていたかもしれません。

* 参考文献及び参考にしたTV番組
この記事はTBS「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」やNHK「英雄たちの選択」を参考にしました。

功名が辻〈1〉 (文春文庫)
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長宗我部元親 (人物文庫)
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山内一豊
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綱吉のニックネームは犬公方ですが、もう一つニックネームがあります。それは「ナマズを呼ぶ男」。ナマズとは魚のナマズのことではありません。地震ナマズのこと。綱吉の時代は天変地異が多かったのです。

まずは、1703年12月31日の大晦日、深夜2時ごろのこと。江戸ですごい大地震が起きました。マグニチュードは8.1。いわゆる元禄地震です。

津波(房総半島や熱海、鎌倉などで)や液化現象(平塚と品川にて)、江戸の町も火災の被害もあったそうです。また、小田原城もこの元禄地震で崩壊したというから恐ろしい。江戸は比較的被害は小さかったようですが、小田原領内の倒壊家屋トウカイカオク家屋約8,000戸、死者約2,300名だったそうです。

夜中にいきなり地震がきたらびっくりしますよね。昼間の地震も怖いけれど、みんなが寝ている時に地震が来たらもっと怖いです。ちなみに、この地震が起きた1703年は「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助以下46人の志士達の切腹を命じた年でもあります(この年の三月)。だから、この元禄江戸大地震は「死んだ赤穂浪士達のたたりじゃないか?」と江戸っ子達はウワサをしたとか。


元禄地震の4年後の1707年の10月28日に、東海・南海・東南海の3つの地域で、同時に3つの大地震が起きました。宝永地震です。マグニチュードは8.4ないし8.7と推定されています。これだけの地域で地震が起こったのだから被害は酷かっただったと思われてます。

それからこの年の12月には富士山が噴火しました。それで綱吉が生類憐みの令とか悪政を敷いたからと当時の江戸っ子は思ったかもしれません。昔は災害が多く起こるのは為政者が悪い政治を行い、天が怒っているからだと信じられていたから。

ごく最近になって生類憐みの令も、動物だけでなく弱者救済をした法令だと再評価されておりますが、昔は悪法だと言われていたのですよ。僕が中学のときだって、生類憐れみの令が治安維持法と並ぶ悪法だと学校で教えられたくらいだから、江戸時代を生きる庶民にとっては迷惑な話だったでしょう。

いくら綱吉が弱者救済したとかいっても、マスメディアやSNSもない時代です。綱吉の良い話など庶民になかなか伝わらず、悪い話ばかりがどんどん伝わるのです。昔から悪事千里を走るというくらい、悪いウワサや評判の方が広がりやすいのです。うなぎもダメ、魚もとってはダメだから商売もできないし、中野に犬小屋を作ったために莫大バクダイな維持費がかかり、その維持費を庶民に払わせようとしたのですから。そりゃ庶民はたまったもんではありません。「忠臣蔵」の話だって庶民があそこまで赤穂浪士たちに喝采かっさいを送ったのは、生類憐れみの令への不満の裏返しかもしれない。

綱吉は、天の怒りというより、将軍になった時期が悪かったのです。大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられており、こうした巨大地震は周期があるようです。綱吉がいたころは日本の地底で大規模な地殻変動チカクヘンドウが起きていたのかもしれません。

http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/784545.html
(こちらの記事では綱吉の生類憐れみの令について触れました)


(小田原城 このお城は昭和に再建したもの)

以前、「その時歴史が動いた」はマザー・テレサがとりあげられた事があります。マザー・テレサは幼いころに父を亡くした経験から、平和をだれよりも願っていました。そして人が人に関心を示さなくなることを誰よりもなげいていました。そんな彼女の生き様が多くの人々に感動をあたえたのだと思います。

番組では、マザー・テレサの功績をマンセーしたというよりも、むしろマザー・テレサの苦悩くのうがruby>描えがかれていました。良い事をしているのに、周囲の理解がなかなか得られない。

心無い人から中傷ちゅうしょうされたり、ヒンズー教徒がマザー・テレサたちがつくった施設しせつ異教施設いきょうしせつとして、マザー・テレサに抗議こうぎしたり。

「マザー・テレサもなやんだり、苦しんだりと、人間くさい一面もあるんだな」ってみょうに共感してしまいました。そんなマザー・テレサの苦労は(オリビア・ハッセー主演の)映画にも出てきたっけ。

マザー・テレサの素晴らしいエピソードはいくつもあるのですが、僕が個人的にいいなってエピソードが「その時、歴史が動いた」で取り上げられいました。


両親を幼いころになくし、マザー・テレサの孤児院で育った一人の女性がいました。その女性は、マザー・テレサ達の愛に育まれ、幸せな少女時代をすごしたが、彼女が就職のとき、履歴書で親のことを書くらんに親の名前を記入することができず困ったそうです。

その時、彼女は初めて、自分に親がいないことを実感したそうです。そんな時、マザー・テレサが親の欄に「マザー・テレサ」と書けと彼女に言ったそうです。そして、見事彼女は就職や結婚けっこんも出来て、孫にも囲まれ幸せな日々をすごしているそうです。彼女はマザー・テレサがいなければ今の幸せはなかったと語っています。




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オマケ

マザー・テレサの愛の言葉が詰まった動画を見つけました。(映らなかったらごめんなさい)








今日は終戦記念日。靖国神社やすくじんじゃまつられているA級戦犯のことが何かと問題になります。そのA級戦犯の東條英機。東条というと、ヒトラーとならぶ独裁者と教わりました。

しかし、NHKのドキュメンタリー番組の『映像の世紀』をみて、少し彼の印象が変わりました。『映像の世紀』に学徒出陣がくとしゅつじん(※1)の場面が出てくるのですが、学生達の行進を見ていた当時の首相の東條英機が本当に悲しげな表情をしていたのです。

僕も「本当は、この人世間でいわれるほど悪い人じゃないのでは?」と思ったのです。それから東條英機の事を調べているうちに、学校では教わらない別の顔が見えてきました。むしろ気のどくな人だと思えてきました。

昭和天皇陛下は意外にも東條英機のことは好意的でした。ほかの軍の幹部には批判的だったのに。天皇陛下はこのように評価されました。

元来東條と云ふ人物は、話せばよく分かる。それが圧制家のように評判が立ったのは、本人が余りにおおくの職を掛け持ち、忙しすぎるために、本人の気持ちが下に伝わらなかったことと又憲兵をあまりに使ひすぎた。

それに、田中隆吉とか富永(恭次)次官とか、とにかく評判のよくない且つ部下の抑へのきかない者を使ったことも、評判を落とした原因であらうと思ふ。東条は一生懸命仕事をやるし、平素謂っていることも思慮周密でなかなか良いところがあった。


もちろん、ゴミ箱漁りをしたとか、富永とかゴマスリみたいな側近を重んじたとか、憲兵を使って自分に反対する者を弾圧だんあつしたり、危険な戦地に送りこむなど恐怖政治きょうふせいじをやったことは大いに批判したいところですが。危険な戦地のくだりはともかく、最もゴミ箱漁りは国民の食料・物資が行き届いているかを確認するためだと言われております。

東條英機も、はじめは日米開戦を防ごうとしたそうです。昭和天皇の意向が強く働いたのでしょう。それがアメリカからハルノートをきつけられ、やむなく開戦にみ切ったそうです。そのとき東条は一人泣いたそうです。「戦争を阻止そしせよという天皇陛下の期待にこたえることが出来なかった」と心からわびたとか。

https://www.youtube.com/watch?v=EmMClGwSF1M
(学徒出陣の動画。うつらなかったらゴメンナサイ)

また、東條英機はメモともいうべきマジメな性格でした。それが彼の長所であったと同時に欠点でもあったのでしょう。つまり、官僚かんりょうタイプにありがちな一度決めたらテコでも動かない融通ゆうづうの利かなさが彼の欠点なのかもしれません。リーダーはマジメなのも大事だけど、ある程度遊びがある人の方が良いというのが僕の考えでして。東條自身もまさか自分が首相になるとは思わなかったそうです。東條は「水商売の教育は受けていない」といったとか。僕は水商売の仕事も政治家の仕事もやったことがないのですが、どちらも大変な仕事だと思うのです。頭の良さもさることながら、コミニケーション能力が長けていないとできる仕事じゃないと思います。相手の顔色を見ただけで何を考えているかどうかがわかるみたいな。つまり、すごく空気を読める人じゃないと。ましてや一国の総理となると異なる利害を調整するために、面倒な根回しもしなくてはならないし、責任も重い。

そして東條英機が東京裁判中に作った俳句。


「五十年馬上にすぎし夢のあと」



東條も政治家なんかにならずに馬上(軍人)だけの人生だったら、これほど後世から悪く言われなかったかもしれません。

※1 歌手のGACKTさんが戦争に行くことではありませんよw。第二次大戦末期の昭和18年(1943)以降、兵力不足を補うため、二十歳はたち以上の学生を入隊させたり、戦地にいかせたりすること。

首相列伝―伊藤博文から小泉純一郎まで
首相列伝―伊藤博文から小泉純一郎まで
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(この記事は2007年に書いた記事を加筆修正したものです)

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