history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

 テレサの協力者 エクセム神父
 マザー・テレサには「聖マリア学院」時代の教え子の他たくさんの協力者がいましたが、代表的のはヴァン ・ エクセム神父。ベルギー生まれでマザー・テレサの協力者でもあり、相談相手でした。エクセム神父の口ぞえでマザー・テレサは修道院の外に出て、スラムにて貧しい人たちの救済活動ができるようになりました。

テレサのスラムでの活動拠点になるマザー・ハウスを探してくれたのもエクセム神父でした。


2 死を待つ家を建設


 マザー・テレサが孤独死をしそうな人を手厚くもてなす施設をつくりました。「死を待つ家」。この施設はヒンズー教徒の寺院の敷地を借りたものです。だから、ヒンズー教徒から反感をもたれました。「神聖なヒンズーの建物を異教徒が使うのはけしからん」と。

しかし、テレサが瀕死(ひんし)のヒンズー教の僧侶を看取り(みとり)、ヒンズーの教義に則って(のっとって)葬儀(そうぎ)を行いました。それからヒンズー教徒たちはテレサたちに理解を示すようになり、むしろテレサに協力するようになったそうです。

テレサはキリスト教のやりかたを押し付けようとはせず、この施設の患者が亡くなったときの対応や埋葬の方法などその患者の宗教を尊重したやり方をしていたそうです。

テレサだけでなく、死を待つ家で働いているシスターもイスラム教徒の患者が亡くなった時に、コーランを唱え聞かせていたとか。

3 「聖なる子供の家」
 マザー・テレサは子供達のための施設や精神障害者のための施設もつくりました。1955年につくった「聖なる子供の家」には、テレサの思いが込められていました。

「聖なる子供の家」は、貧困から子供を育てる事のできない家族の子供を一時的に預かったり、病気の子供や未婚の女性が産んだ子供たちを保護するための施設だそうです。

子供を育てるにも養育費や教育費と色々かかって大変みたいですね。

特に日本の養育費の高さは、世界的にも歴史に残るレベルだとか。二児の母である僕の従姉もぐちっていたし、僕も母にはそういう面では迷惑をかえたかなあと反省しております。

それはともかく、子供を養う余裕がなくて、泣く泣く子供を手放す親御さんの事を思うとつらいです。

でも、テレサたちの深い愛に包まれれば安心かなとも思います。テレサの下で元気を取り戻した子供達は、インド国内や世界中に養子として引き取られていったそうですね。

テレサが育てた子供のエピソードは以前にも書かせて頂きました。
http://blog.livedoor.jp/seimei1128-rekishi/archives/188266.html
(マザー・テレサに助けられた少女)


 
4 ハンセン病患者のために

さらにハンセン病患者のために「平和の村」をつくろうとしました。そこは家族と暮らしながら、治療が出来る場所。ハンセン病患者たちは、病気の正しい知識がないために、人々から差別されたり、自ら、人目を避けるようにして暮らしていました。そんなハンセン病患者たちの事をテレサは気に病んでいました。

しかし、平和の村を作るには金がかかります。テレサたちはそんなにお金を持っているわけじゃないから。さあ、テレサはこの難局をどう乗り切るか?そして皆さん、いよいよ今日のその時がやってまいりますw(松平定知風に)


5 高級車なんて要らない
 ある日、ローマ法王からテレサに高級車が贈られてきました。アイディアマンのテレサにいい考えが浮びました。この車を賞品にして、宝くじを発行し、その収入を「平和の村」建設資金にする事を。

高級車がタダでもらえるなんて、車好きの人にはたまらないが、いつも自分の足だけで救済活動をしているテレサ達には高級車などいらないものでした。

テレサの読みはあたり、車を売った収入で1957年に「平和の村」を作ることができたそうです。



参考文献

『宣教師マザーテレサの生涯』
『マザー・テレサ』(マンガ世界の偉人)

 

1 マザー・テレサの心の叫び
「2月28日、神様は今日の孤独はまさに拷問です・・・この苦しみがどれだけ長く続くのでしょう。涙がとめどなく流れます。みんな私の弱さを見てください。神様、私に自分の弱さと戦う勇気をください。私が自分の意思でささげた犠牲を悔やむ事がありませんように。汚れなき御心の我が母よ。貧しいわが子である私を哀れんでください。」



マザー・テレサがカルカッタのスラムに訪れて間もないころに言った言葉です。

マザー・テレサと言うと悩みなんて一つもないようなイメージがありましたが、彼女も悩んだり、自分の弱さをさらけ出す事があるんだと妙に親近感がもてました。

2 マザー・テレサ告訴される
 マザー・テレサが告訴されるなんて「ええ!?」って思いますね?もちろん、テレサは悪い事をしたわけじゃありません。誘拐犯(ゆうかいはん)のぬれ衣を着せられただけ。ある日、聖マリア高等学校のかつての教え子がテレサの下に尋ねてきました。

スバシニ・ダスと名前の女性で、弁護士を父に持ち、裕福な家庭の娘です。彼女は親の反対を押し切り、テレサとともに暮らし貧しい人たちを救いたいとテレサに願い出ました。テレサは彼女を受け入れ、テレサとともに貧しい人たちの救援活動をすることになります。後にスバシニ・ダスはシスター・アグネスと称し、マザー・テレサの一番弟子とも言われるようになります。

しかし、スバシニ・ダスの両親は「娘を返せ」と要求し、テレサを告訴したそうです・・・


3 正式な修道会として認められたものの・・・・


 テレサがスラムに出て2年。テレサの下で働きたいという人も少しずつ増えていきました。テレサの地道な活動が認められ、テレサの会は正式に修道会として認められるようになりました。テレサをリーダーとする新しい修道会の誕生です。しかし、テレサが新しく開いた修道会は順調ではありませんでした。 

インドはヒンズー教徒が圧倒的に多かったから、クリスチャンで異邦人のテレサを信用する人は少数でした。テレサに石を投げた人もいたとか。

1952年に路上で死を待つ人々が安らかに死を迎えられる場所をつくるために、コルカタ市に建物を作ってほしいとテレサは頼み込みました。

テレサの願いに市が無料で用意したのはヒンズー教の女神をまつるカーリー寺院の裏にある巡礼者用の休憩所でした。テレサはここを「死を待つ人の家」と名づけました。ヒンズー教徒たちはそれが面白くありません。ヒンズーの暴徒達が「死を待つ家」に押し寄せてきたそうです。「ヒンズーの聖地が異教徒に汚される」と。

さらに地元の警察署長までが、テレサを追い出そうとしました。もっとも警察署長はテレサの活動に感激し、テレサの事を許すのですが。


オマケ


マザー・テレサの本はたいてい彼女を完全無欠の神のように描かれることが多いのですが、映画「マザー・テレサ」にはスキャンダルに巻き込まれれたとか結構泥臭い話が出てきます。逆にいえば、マザーの人間くささがて丁寧に描かれています。

この映画の予告編および主演のオリビアン・ハッセーの記者会見の動画を見つけたのでご紹介します。



(映らなかったらごめんなさい)



参考文献および資料

『宣教師マザーテレサの生涯』
『マザー・テレサ』(マンガ世界の偉人)

映画「マザー・テレサ」





1 マザーテレサ、スラム街へ乗り込む。
マザー・テレサはロレット修道院を出て、貧しい人のために働く決心がつきました。「貧しい人たちのために働きなさい」という神の啓示に従ったのです。テレサはダージリンから帰るとすぐ、カルカッタの大司教とローマ法王に修道院を出る許可を求めました。

しかし、修道女は外に出ることは禁じられていたそうです。それでも「一年くらいで戻ってくるのなら許そう」という特別な計らいがでました。その許可が出たのは1948年の1月。テレサが38歳の時です。スラムに行く前に、インドのパトナという町にあるメディカルミッション修道女会に向かいました。

スラムでの奉仕活動に必要な医学の基礎知識と看護技術を学ぶ為に。看護技術を会得するには最低2年かかるそうなのですが、テレサは4ヶ月くらいで看護技術を身につけました。すごいですね。


2 たった5ルピーで

 テレサはロレット修道会から5ルピーだけ貰って、スラムへと向かいました。5ルピーは日本円に換算すると、たったの150円!!

衣装も粗末な木綿のサリー、持ち物も十字架だけ。テレサはカルカッタに戻り、スラム街へ向かいました。

テレサはスラムへ向かったのですが、肝心の行き方がわかりません。知り合いの人にスラムの行き方を聞いてみたところ、何とスラムはテレサが長年働いていた聖マリア女学校のすぐ裏手。

東大もと暮らしじゃなかったw灯台もと暗しですねえ。テレサは学校で教師をしていた時は外出することもなかったので、カルカッタの街の事も良く知らなかったようです。

テレサがスラムで最初にしたことは青空教室でした。スラムには貧しくて学校に通えない子供達がいっぱいいました。そんな子供たちをテレサは空き地に集めて、子供達に読み書きを教えたのです。最初の日に訪れた子供は5人。半ズボンをはいているだけで上半身はハダカ。服もマトモに買えないような子供達・・・・

テレサは、地面に棒でアルファベットや数字を書いて(黒板がないから)、英語やインドの言葉などを一生懸命教えたそうです。勉強だけでなく衛生上の注意も教えました。「みんな、毎日、自分で体も手もあらってね」と。初めは5人位だった子供達も、日に日にテレサの青空教室にやってくる子供は増えてきて、テレサに住む家を提供してくれる人や寄付をしてくれる人も現れるようになりました。

3 その頃の世界は
 この頃の世界は混沌としていました。第二次世界大戦がおわり、列強の植民地だった国々が次々と独立を果たそうとしました。

特にアジア地域では、中国では毛沢東、ベトナムではホー・チミン、そしてインドではガンディーやネルーが強力なリーダーシップを発揮していきます。しかし、ガンディーは1948年1月30日に暗殺されてしまいます・・・

カルカッタの街でも1946年にカルカッタの虐殺という事件がありました。ヒンズー教徒とイスラム教徒が激しいバトルがありました。死傷者は4000人を超えたとか・・




※ 参考文献

『宣教師マザー・テレサの生涯』
『マザー・テレサ かぎりない愛の奉仕』
『マザー・テレサ』(’マンガ世界の偉人)














1 インドにて誓願
 テレサは18歳の時に家を離れ、1928年の10月12日、アイルランドにあるロレット修道院に入りました。一か月半ほど修練院で研修みたいな事をやり、それが終ってからインドへ派遣されることになりました。

1928年の12月1日、インドに着いたテレサはダージリンの修道院に赴きました。そこで、およそ2年間の修行(聖書や修道院の決まりごとや語学を学んだ)を経て、テレサは1931年(テレサが21歳の時)にローレット修道女として初誓願(※1 はつせいがん)をたてました。

この初誓願を立てると、それまでの志願者から晴れてシスターになれるのです。

初誓願のときに選んだ修道名がテレサでした。この名前はリジューのテレーズという聖女にあやかって付けたものです。僕のブログでは分かりやすくする為にマザー・テレサで通していますが、実際彼女がテレサと呼ばれるようになったのは初誓願の時からです。それまでは本名のアグネス・ゴンジャで通っていたのです。

さらに1937年に2度目の誓願、終生誓願(生涯神に仕えるという誓い。一人前のシスターになった証)を宣立しました。時にマザー・テレサが27歳の時の話です。

※1 誓願とは貞潔、清貧、従順の三つの約束を神様にちかうこと。初誓願は、向こう1年とか3年とかの期限を設けて誓うことだそうです。



2 カルカッタで教鞭

 1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教えていました。テレサが教師だった頃の世界情勢は、欧米列強や日本が戦争をドンパチやっていた頃。その頃のテレサはどんな心境で、バカな戦争を見ていたのでしょう・・・・



聖マリア学院は上流階級の子供達が通うところです。日本で言えば学習院みたいなものかな?彼女は子供の頃から地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は、学院の女学生達の間で大変人気があったそうです。1944年には校長に任命されました。


3 天のお告げを聞く。

 1946年、マザー・テレサが36歳の頃に彼女にとって大事件が起きます。テレサが黙想会(もくそうかい)に参加する為カルカッタからダージリンの修道院に向かう為、汽車に乗っていた。その車中で突然神の声を聴いたのです。


「貧しい者のなかの最も貧しい者に仕えなさい」


テレサはハッとさせられました。

後年になって、テレサと親しい人物が「声を聴いたのですか」とテレサに質問した所、テレサはほほえみながら、「いいえ、ここに響いたのです。」と言って、質問した人物の胸をポンポンと指さしたのです。

テレサはこの出来事を「第二の召名」と呼んでいます。

しかし、テレサにとって教師の仕事は充実していたと思われます。知り合いの神父に「私は生徒を教えるのは大好きでした」と手紙にしたためたほどだから。初めはマザーも教師の仕事を投げ出す事にとまどいがあったかもしれません。


参考文献

『マザー・テレサ』(マンガ世界の偉人)
『宣教師 マザー・テレサの生涯』(上智大学出版)
『マザー・テレサ』(和田町子)
『このひとをみよ 歴史をつくった人々伝』





今日の記事はかなり長いです。校長先生の朝のお話よりは短いかもしれないけれどw?


マザーの話からちょっとはなれて、マザー・テレサ(1910年8月26日 -1997年9月5日)の故郷マケドニアの20世紀の歴史をします。

今日の記事はウィキペディアの記事をほとんど丸写しwごめんなさい🙇‍♀️

けれど、マザーの事を語る上でマケドニアの歴史は触れた方がいいのかなと思って今回の記事を書きます。


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