History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

3月11日は東日本大地震が起きました。亡くなられた方にはおやみの言葉を申し上げます。テレビで見たのですが、自然の力は本当におそろしいと思われました。道路がこうもグニャグニャに曲がるのかと思いました。津波つなみもおそろしいと思いました。人間が自然に打ち勝つことはムリなのだろうなって改めて思いました。

2011年3月11日は東京でも大きなれがありました。余震よしんも何度か続きました。あの地震じしん以来、自分は本当に神経質になりました・・・風でマドがカタカタいっただけで「あ、また地震か?」なんて思うようになりまして・・・・

東北だけでなく、中国やニュージーランドなど世界各地で大きな地震が起きました。東京に住んでいる僕にとっても決して他人事ひとごとだとは思えませんでした。

大阪のJR環状線かんじょうせん大正駅たいしょうえきの近く、木津川きづがわにかかる大正橋に石碑せきひがたっています。その石碑には安政南海地震あんせいなんかいじしんの際の犠牲者ぎせいしゃをとむらうために建てられたものです。

その石碑には地震が来たときの教訓も書かれているそうです。安政南海地震の時は山の様なでっかい津波つなみおそい、大坂(※2)の町も被害ひがいを受けたそうです。

そこには「大地震が起こったときは、いつも津波がくると思って、絶対に船に乗ってはいけない」、「家がくずれて、火災も発生するだろう。お金や証文しょうもんなどはくらに保管し、戸じまりを厳重げんじゅうにし、火の用心が肝心かんじん」なども書かれているそうです。

自分達の住んでいる地域の歴史を学ぶのも地震対策になるんだなって思いました。

※2 大阪のことを昔は「大坂」と表した。


※ オマケ

これまで日本で起きた地震を1300年分り返るという動画を見つけました。日本はいかに地震が多いかがうかがえます。

なお、この動画を見ていると古い時代ほど地震が少ないように感じられますが、,それは古代は地震の記録がちゃんと残っていなかったためです。近代になるほど多くなるのは、きちんと記録をしているからであって、近代になって地震が増えたわけではないのです。





(今回の記事は2011年3月25日に書いたものを加筆修正しました)

※ 参考文献


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(直江兼続のヨロイの写真。ウィキペディアより)


直江兼続(なおえかねつぐ)といって連想されるのは、ヨロイカブトのでっかい「愛」の字です。この「愛」は民を愛する「愛民の精神」の「愛」を意味するのでしょうか?

それは直江兼続本人に聞いて見なきゃわかりませんがw、どうもこの「愛」の字は「愛民」の愛というよりも、軍神である愛宕権現あたごごんげんあるいは愛染明王あいぜんみょうおうの一字から取った可能性が大きいそうですね。

なにしろ戦国時代ですからねえ。戦国武将は、カブトの前立てに神仏の像や神号・仏号を用いた例が多いそうです。戦に勝つためのゲンかつぎorお守りみたいなものでしょうか?

といっても、直江兼続が血もナミダも無い人物だったわけじゃありません。直江兼続は米沢よねざわにてよい政治をおこなったそうですね。暮らしむきの安定と生産性の向上を図る治水事業も行いました。武士達には、っ立て小屋に住まわせながら荒地あれちを開いてソバや豆を植え、野菜をつくるという生活を直江兼続はすすめました。

また、直江兼続は米沢の地にウコギを持ちこんだ人物で知られています。

ウコギの葉はかわかせば茶の代用になり、その根を乾かしてせんじれば薬となり、みきにはするどいトゲがあるからドロボーよけにもなるという便利な植物です。

そのウコギを武士の家々の垣根かきねにウコギを植えさせる事をすすめました。

さらに武士の屋敷の庭にはクリ、かき、あんず、イチジクなども植えさせました。他にも染料せんりょうとなるベニバナなどの栽培さいばいもすすめました。

直江兼続は文化人でもありました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺいの際には多くの本を集めたり、印刷技術も朝鮮ちょうせんから持ち込んだそうです。

直江兼続は米沢に禅林寺ぜんりんじ宝泉寺ほうせんじ)というお寺もつくりました。そのお寺に禅林文庫ぜんりんぶんこというものをつくりました。

そこには直江兼続が集めた本がいくつもあります。禅林文庫は藩士はんしの教育に役立てるためにつくったものですが、これが後の藩校はんこう興譲館こうじょうかん」設立にもつながったそうですね。他にも直江兼続は連歌れんかや漢詩にも通じていたようですね。


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(ウコギの写真。ウィキペディアより)






※ 写真はウィキペディアより引用しました。 
※参考文献


直江兼続のすべて



直江兼続の生涯―義に生きた天下の智将 (別冊歴史読本 23)

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この記事は2011年の2月頃に書いた記事に加筆修正したものです。

1 美へのこだわり
 ちょっと前にビューティーコロシアムという番組を放送していました。自分の顔にコンプレックスを持つ一般女性が出演し、整形をすることでなやみを解決していくとうもの。

僕も番組を見ていて「何も整形しなくてもいいじゃん、あなたの顔をバカにするヤツが悪いんじゃないか」って思ったのですが、「やはり女性(最近は男性でも)は、いつまでもきれいでありたい」という願望があるのだなと思いました。

今日のテーマのオーストリア皇妃こうひだったエリザベートも例外ではありません。肖像画しょうぞうがをみていると本当にきれいな人です。しかし、そんな彼女でも、いつまでもきれいでいたくてすごいダイエットをしたそうです。



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あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。

新年最初のエントリーは天英院の話。天英院は絵島事件にも関わっているし、八代将軍に吉宗がなるときにも、この人が関わっていました。12チャンネルで放送されたある歴史番組では、天英院は実は倒幕をたくらんでいたと。天英院の実家は近衛家、つまり朝廷側です。徳川家をうらんでいた島津家と組んで徳川を倒そうとしたのです。

島津家は幕府から、実際の石高よりも大目の税をとるなどいろいろと嫌がらせをされていたとか。

そこで、綱吉の養子でもあり、天英院の子飼いでもある竹姫を島津家に嫁がせ、幕府と島津家を和解させます。しかし、それは表面的なものでした。

幕府に島津家に対するいやがらせをやめさせる一方で、竹姫に幕府を倒すように洗脳(せんのう)をさせます。やがてその倒幕の志が島津家の子から子へと受け継がれ、13代将軍家定の代になって、島津家の娘の篤姫を家定に嫁がせ、将軍家定を毒殺したというものでした。

これが本当だったら怖い話ですね。

でも、天英院が本当に幕府を倒すつもりがあるのならば、7代将軍家継の後継を名君の吉宗ではなく、あまり領民からの評判のよくなかった尾張家の継友を推薦(すいせん)したと思います。しかも尾張家と近衛家は親せき関係だったそうですし。

というか、本当に天英院が倒幕派だったら、家継が亡くなった時の将軍不在のドタバタをもっと利用したはずです。将軍が決まらない状況なんて、幕府を倒すまたとないチャンスですからね。

それに、幕末の時代の島津久光は倒幕どころか、初めは佐幕派(幕府の味方)でした。後に倒幕へと傾くのですが、それはあくまで外国のこわさを理解し、日本が植民地になったらやばいと判断したからであって、個人的なウラミだとは僕には思えません。

竹姫は久光のひいおじいちゃんである島津重豪の養育をして、彼の藩政に影響を与えたのは事実ですが、倒幕どころか、むしろ幕府を憎まないように養育したんじゃないでしょうか?

島津重豪の娘は11代将軍の家斉の元に嫁ぎましたし。篤姫も、朝廷が幕府を本格的につぶそうとしたときに、和宮とともに徳川家の存続を薩長に対して懇願したといわれています。話を天英院に戻して、もしも天英院がいなかったら幕府はもっと早く滅んでいたと私は思います。




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