History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

(この記事は2014年に加筆修正をしました)

下田に行ったとき、僕がどうしても訪れたかったスポットが今日ご紹介する玉泉寺(ぎょくせんじ)です。このお寺は我が国最初のアメリカ総領事館でした。




(玉泉寺の門)




(玉泉寺のお堂)




(アメリカの領事館跡だと書かれた石碑)




(アメリカ元大統領のジミー・カーターも、玉泉寺をおとずれた)

1 日本最初の領事館&屠殺場(とさつじょう)

 玉泉寺は領事館として利用されていましたが、我が国初の屠殺場とさつじょうがあったところだそうです。

ちなみに、屠殺場とさつじょうとは牛やブタを殺して、食肉にするところです。

おそらく、ハリスをはじめとしたアメリカ人たちのために作ったのでしょう。当時の日本人は肉を食べるなんて習慣は無かったのですから。

このお寺は黒船の乗組員のお墓やロシア船ディアナ号の乗組員のお墓もあります。横浜にも外人墓地があるけれど、ここの寺の外人のお墓のほうが古いようです。(まちがっていたらごめんなさい)



さて、このお寺の境内にハリスが残した言葉が書かれた碑文ひぶん(※1)がありました。その碑文には、

※1 石碑(せきひ)に刻みこまれた文章


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この記事は2009年9月に書いたものを加筆修正しました。

長野県の穂高にあるわさび園は僕がちっちゃい頃から何度も訪れているから(少なくとも5回は訪れている)、来る度に「また来たか」と思います。でも、ここを訪れないと信州安曇野に来たって感じがしないのです。
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ここには伝説があります。時は平安時代の初期、桓武天皇の時代。穂高の八面大王と呼ばれる豪族が安曇野地方を支配していたそうです。それを朝廷が坂上田村麻呂を遣わして、穂高の大王を退治したって話。

僕は子供の頃、この八面大王というのが悪い奴だと思っておりました。だって八面大王というネーミングからして怖いイメージがするしw、それに八面大王は民に迷惑をかけた悪い奴だって話も聞いたことがあります。





しかし、今回説明看板をじっくり読んでみて、本当に悪いのは朝廷じゃないかって思われました。むしろ安曇野の地を守る勇者のようにも感じられました。

一方で、朝廷は東北平定の足がかりの為にも信州の地を押さえておきたかったのです。朝廷にも八面大王にもそれぞれ言い分があったのでしょう。ただ、朝廷が貢物を要求したり、無理難題を押し付けたりと強権的なやり方がまずかったのかもしれません。

八面大王は神通力の持ち主だったと信じられていました。田村麻呂がせっかく退治したとしても、また蘇ってくるのではないかと思い、死体を切り刻んでバラバラに埋めたそうです。

大王の耳を埋めたのが(長野県穂高にある)有明の耳塚、首を埋めたのが筑摩神社の首塚、そして胴体を埋めたのが穂高の大王わさび園だといわれています。

大王が立て篭もったといわれている祠。僕も祠の中に入ったのですが、祠に入っていたとき、土砂崩れして、外に出られなくなるのではないかとハラハラしていましたw ↓ 

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(大王の見張り台と呼ばれる築山)

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(大王の見張り台と呼ばれる築山の頂上にあった大きな石)


その安曇野もいまや長閑な田舎の風景そのものです。とてもそんな争いがあったとは思えません。

それから、わさび園は黒澤明さんの映画のロケにも使われました。その黒澤さんの映画の題名は『夢』

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映画『夢』にもでてきた水車小屋の風景をいくつかご紹介します。風情があっていいですね。昔の日本では水車のある風景なんて珍しくなかったのかもしれないが、今ではすっかり珍しくなりました。寂しい事です。


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時は五大十国の時代。日本で言えば平安時代ごろです?当時の中国はいくつかの国に分かれていて争っていました。いわゆる戦国時代のお話です。

その時代に李克用(りこくよう)という大将がいましたが、病気になってしまいます。李克用は息子の李存勗(り そんきょく)を呼び寄せ、三本の矢を見せました。

李克用の三人のライバルをこの矢でたおせという遺言ゆいごんを残したのです。三人全員を倒せなくても、李克用の宿敵、朱全忠(しゅぜんちゅう)だけでも息子に倒してもらいたかったのかもしれません。

三本の矢と聞いておどろきました。

日本で「三本の矢」といえば毛利元就(もうりもとなり)が有名ですが、中国にも似たような話があったとは。

実は、この話、歴史マンガで知りました。歴史マンガもバカにできませんね。

それからしばらくして、朱全忠(しゅぜんちゅう)は自分の息子に殺されてしまいます。

その混乱に乗じて、李存勗(りそんきょく)はしゅ一族が治める後梁こうりょうめこみました。後梁を滅ぼした李存勗は後唐こうとうという国を建国しましたが、李存勗(りそんきょく)は政治に関心をもたずゼイタクばかりして遊んでいました。

李存勗(りそんきょく)は人々のウラミを買い殺されました。それで後唐は滅亡めつぼう。宿敵の朱一族を倒した事で油断したのかもしれません。



※参考文献 『学習漫画 中国の歴史 5』(集英社)

中国の歴史〈5〉宋王朝と北方民族の興隆―五代十国・宋・遼・金時代 (集英社版・学習漫画)

(この記事はウィキペディアを参考にしました)
1 ザビエルが石見銀山を狙っていた?

 以前、ある歴史番組で取り上げた話の中で印象に残ったのはザビエルが石見銀山ねらっていたという話です。

石見銀山とは、島根県にあった銀山で、今でこそは銀はとれなくなったようですが、全盛期は世界の銀の産出量の三分の一もめていたとか。

その石見銀山に外国人が目をつけないはずがないということで、ザビエルが銀山をねらっていたという話になったのでしょう。
 
ザビエルのイエズス会はヨーロッパ諸国がアジア諸国を侵略しんりゃくするために使わしたスパイなのだと番組で取り上げられていました。

2 ザビエルは純粋じゅんすいな気持ちで布教?

 でも、イエズス会という組織はともかく、ザビエル個人は本当に純粋じゅんすいな気持ちでキリスト教の尊さを教えようとしたのだとボクは思いますね。

ザビエルは日本の国民の事を大変めていたそうですから。

石見銀山あたりにはかくれキリスタンが多かった事も、ザビエルが石見銀山を狙うという野心をもっていた根拠こんきょの一つのように取り上げていました。

でも、それがどうしてザビエルの野心と結びつくのでしょう?

隠れキリスタンはむしろ九州に多かったのですがw?
100歩ゆずって、ザビエルがアジア侵略しんりゃくをたくらむスパイだったとしても、石見銀山を本当にねらっていたかどうかは、わかりかねます。


(石見銀山の動画)

3 イエスズ会の実態
 そもそもイエスズ会というのは、当時ヨーロッパで勢力をばしつつあるプロテスタントに抵抗するためにつくられたカトリックのグループだそうです。

イエスズ会は「教皇に対して忠実でありたい」というスタンスですが、かといって教皇にペコペコする立場ではありません。また、カトリック教会の改革の必要性をイエスズ会の人たちは理解しておりました。カトリック教会の様々な問題点をイエスズ会は厳しく批判をしています。

また、豊臣秀吉(とよとみひでよし)がバテレン追放令ついほうれいを行ったきっかけは、九州などでヨーロッパ人が人身売買を行っていたからと言われていますが、イエスズ会は奴隷貿易に協力するどころか、むしろイエスズ会はポルトガルに対して日本人を奴隷どれいとして売買するのを「やめてくれ」と呼びかけているのですね。

イエスズ会は外国のスパイどころか、ヨーロッパで弾圧だんあつもされたようです。ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたときにイエスズ会の存在がジャマになったのです。18世紀以降になると、それがひどくなってイエスズ会は弾圧されていきます。

*この記事は2009年に書かれたものをリメイクしたものです

以前、なんでも鑑定団かんていだん」で華嵒(かがん)なる人物の花鳥画かちょうがが出てきました。たしか、この人が書いた掛け軸かけじくを番組で鑑定をある高校の校長先生が依頼いらいをして、なんと1千万ほどの値打ちがあったそうです。僕も見たけれど確かにいい絵だなって思いました。


それで、華嵒の事をさっそくネットで調べました。しかし、「華嵒」の「嵒」という字がパソコンで変換へんかんできなくて・・それでも、何とか、彼のことが書かれているサイトを見つけることができました。

彼が活やくしたのは、一説によると康煕こうき21(1682)年-乾隆けんりゅう21(1756)年、まあ清の時代の画家ってことです。

彼は没骨法(もっこつほう)という画法を得意としたそうです。没骨法?なんじゃそりゃ?骨を使って絵をくのW?と僕ははじめは思いました。

ウィキペディアには、輪郭りんかくを描かず、初めから画面に形と色を同時にあらわすという技法だと書かれていました。と言われても絵のことにはトーシロな僕にはさっぱり意味がわかりませんw

華嵒は自分の書いた絵を売り歩いて生計を立てていたらしく、生涯しょうがい貧しい暮らしをしていたそうです。晩年は杭州(こうしゅう)にわたり、西湖(せいこ)のほとりでひっそりと暮らしたそうです。西湖を動画や写真で見たけれど、いいところです。

華嵒は、生活は楽じゃなくても、自由を求めた人生だったのかもしれません。


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