History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

ブログネタ
歴史について(日本のことも世界のことも) に参加中!

今日から沖縄おきなわの明治時代までの歴史を三回にわたってお話します。第一回は沖縄がまだ琉球王国りゅうきゅうおうこくと呼ばれていた時代。豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)と言った権力者に翻弄ほんろうされるところのお話を始めたいと思います。続きを読む


1 台湾の外交官・林金茎(りん きんけい)
 林金茎(りん きんけい)という台湾たいわん生まれの外交官(日本人相手の通訳)がおりまして、彼は蒋介石(しょうかいせき)に認められ、蒋介石、蒋経国(しょうけいこく)、李登輝(りとうき)と三人の総統に仕えた人物だそうです。

林は日本統治時代の台湾を知っている人物で、日本の統治を何もかも悪い時代だったと決め付ける事には賛同しかねると言ったそうです。


2 林が語る蒋介石(しょうかいせき)

 彼が始めに仕えた蒋介石の事は、こわい人のイメージがありましたが、意外と人に気をくばる一面もあったそうです。日本に留学していた経験から、日本語もかなり理解していました。だから、通訳への要求も高く、林の同僚どうりょうから「もし、まちがった通訳をしたら、その場でしかられるぞ」と忠告を受けたとか。

また蒋介石は日本人と会うときは本当にうれしそうで、欧米人おうべいじんのエライ人たちと話をする時とは表情がちがっていたとも語っています。蒋介石は、日本の保守系言論人が言うような、反日一辺倒ではなかったようです。

それどころか、蒋介石は本当は日本が好きだったようです。もちろん、日本の軍国主義者には敵対していましたが、「日本は私の故郷こきょうである」とまで言ったとか。






それから、林は「蒋介石を悪く言う人もいるが、良くも悪くも蒋介石総統そうとうの時代があったから、今日の台湾があった」とも語っています。

蒋介石は、二・二八事件に代表される恐怖政治きょうふせいじや映画の『宋家そうけの三姉妹』のイメージの通り、乱暴らんぼうでガラの悪い人物のイメージがあっただけに意外に思われました。


※ 二・二八事件 本省人(昔からの台湾人)と外省人(大陸からやってきた中国人。国民党)との大規模な争い。国民党による大虐殺事件。



https://www.youtube.com/watch?v=8VC23Zvg1ZM
(二・二八事件の動画)

宋家の三姉妹 [DVD]
マギー・チャン
ポニーキャニオン
2004-01-21





3 林が語る蒋経国(しょうけいこく)

 蒋介石の息子の蒋経国は、日本の時事問題にもくわしかったし、田中角栄が書いた『日本列島改造論』も読んだことがあったそうです。

人となりは仕事にはめっぽう厳しいコワいおに上司だったそうです。だが、その一方で、「その顔色はどうしたのですか、一刻も早く検査を受けなさい、今日は家に帰って休みなさい」と部下にやさしい言葉もかけたといわれています。

また、蒋経国は戒厳令かいげんれいを1987年にやめて、30数年にわたって続いた政党結成とメディアへの規制をやめました。党大会や国民向けの声明では蒋一族の世襲せしゅうの否定や、「私も台湾人である」と宣言したそうです。

もちろん、蒋経国が戒厳令をやめ、民主化への道をすすめたのは、台湾の民主運動家のはたらきがありました。


4 林が語る李登輝(りとうき)

 李登輝は植民地時代に、日本語の教育を受けていたから日本人と会うときもほとんど通訳は必要なかったそうです。林は李登輝の事を博識はくしきで、気さくな人だと評しています。

ただ、今の日本人(特に保守派)が李登輝を神様のように持ち上げている事に関しては、やや冷めた目で見ているようです。台湾たいわんは大変複雑な社会で、変化も激しい。だれか一人が台湾を代表するなんてありえない」と。



もちろん、李登輝は政治家でありながら文学者のにおいがする大人物であることはいうまでもありません。僕も李登輝と司馬遼太郎の対談本も読んだことがありますが、李登輝の見識や人間の器の大きさにおどろいたし、「ああ、こういう人が日本の政治家にいたらなあ」ってマジで思いました。李登輝が、単なる反中のイデオローグに治まるような小さい人物とは思えません。


また、林は台湾の民主化を推し進めた事や自分を駐日大使ちゅうにちたいし抜擢ばってきしてくれた事は心から感謝しているようです。


5 リーダーの才覚


 林金茎(りん きんけい)とこの『日中台 えざるきずな』の著者とのやりとり(インタビュー)をしているところの文章を読んでみて、この世には100%悪人もいなければ、その逆もいないということを改めて思いました。また、台湾の総統だった3人の個性が垣間かいま見れて面白かったです。




※ 参考文献および参考サイト
http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/japan/taiwan_1.html


日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録
日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録
クチコミを見る

注文の多い料理店 (新潮文庫)
宮沢 賢治
新潮社
1990-05-29



(この記事は2015年2月28日に加筆修正をしました)





1 注文の多い料理店のあらすじ

 『注文の多い料理店』は高校の国語の授業で習いました。宮沢賢治(みやざわけんじ)はたくさんの優れた童話を書いていますが、宮沢賢治は短編が多く、さっと読みやすいです。

物語のあらすじは、二人の若い猟師りょうしが二ひきの犬をつれて山でりをしにいったが、道に迷ってしまう。

山が険しいせいか、二匹の犬はめまいをおこして死んでしまいました。

そのときの猟師の言葉が「じつにぼくは、二千四百円の損失だ。」と言ってのけます。

2千4百円なんて今の感覚だとたいした額では無いのですが、当時は大変な額です。(参考 大正時代の物価基準

若い猟師たちにとっては、犬がかわいそうというよりも、大金をどぶに捨てたという感覚なのでしょう。

さっぱり獲物えものが取れない上に道に迷った猟師の一人は「帰りに、山鳥を10円で買って帰ればいい」といってしまう。金で解決しようというキャラのように感じられました。

2 成金たちのいた時代
 話は脱線だっせんしますが、大正(特に初期)は成金、ホリエモンの元祖みたいな人たちがウヨウヨと登場しました。

もっともそうした成金たちは第一次世界大戦、その後の不況ふきょう関東大震災かんとうだいしんさいでほとんど落ちぶれてしまうのですが。

もちろん立派な人もいましたが、中にはお札に火をつけて、明かりの代わりにしたというイヤ味な成金もいたそうです。

二人の猟師はどこか、その成金達とどこか重なるように感じられました。

3 山猫軒
 若い猟師二人は不思議なレストランを見つけます。店の名前は「西洋料理店 山猫軒やまねこけん」。

おなかをすかせた二人はこの不思議なレストランに入ってしまいます。

この小説のあらすじを続けたいところなのですが、ネタバレになるので、今宵こよいはここまでにしとうございますw(大河ドラマ『武田信玄』にでてきた名文句w今の若い子はわかるかな〜、わかんねえだろうなあ。)

BlogPaint

(花巻はなまきにある山猫軒やまねこけん。店員さんはヤマネコではありませんw)

DSC_0360

(山猫軒の入口。お店の中はレストランだけでなく、おみやげコーナーもあります。そこには宮澤賢治グッズがたくさんありました。)

DSC_0361

(山猫軒のお料理。結構けっこうおいしいんですよ

DSC_0362

(ケーキ。こちらもおいしかったです。




※ オマケ


『注文の多い料理店』の朗読ろうどうくの動画(序文じょぶんのみ)を見つけましたので、ご紹介します。


(映らなかったらごめんなさい)

活きる 特別版 [DVD]
コン・リー
ハピネット・ピクチャーズ
2003-11-27





1 チャン・イーモウの『きる』


 先週、中国映画の巨匠きょしょう、張 芸謀 (チャン・イーモウ)監督かんとくの映画『活きる』を観ました。ビデオ屋で半額セールをやっていたので、ビデオ屋で映画を借りてきたのです。

あらすじは見てのお楽しみですが、命の尊さと家族や仲間が助け合う事の大切さを見事にえがいた作品です。

映画に出演したコン・リーさんは本当に演技のうまい人だと思いました。夫を健気けなげに支えるつまを見事に演じています。

その夫というのが、大変な遊び人でバクチで家を破産させてしまいます。

が、夫は影絵かげえの才能があり、そのおかげで(収入はわずかながらも)なんとか妻と子供を養っています。貧しいながらも幸せな人生を送ってきた家族に次々と不幸がやってはきますが・・・

さて、この映画は40年代から60年代までの中国が描かれていて、中国の歴史を知らない人が見ても感動する映画です。

今日はこの映画と中国の歴史を、ちょっと長くなりますが、オーバーラップしてみます。


2 50年代の中国 大躍進運動だいやくしんうんどう


 1949年に共産党が国民党との戦争に勝ち、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくを建国しました。貧しい労働者のための理想的な国としてスタートを切りました(はずであった)。

映画にも共同食堂(おそらく無料)で人々が、もくもくと食事をしているシーンが出てきます。貧乏びんぼうで食べるものに困っている人には、こういった施設しせつはありがたいかもしれません。その一方で地主などの金持ち階級がひどい弾圧だんあつを受けたそうです。

50年代の後半に中国政府は大躍進政策だいやくしんせいさくを行いました。

この映画では自転車やナベなどの鉄製品をあちこちから集めて、それらをかして製鉄をしているシーンが出てきます。まるで戦中の日本人のように、人々はる間も惜しんで鉄を作ったが、そんな苦労もむなしく出来たのは小さな鉄でした。

とても実用化できるような代物にはみえないのですが、市民達はとっても満足そうでした。そんな場面も映画に登場します。

3 60年代の中国 文化大革命ぶんかだいかくめい

 60年代に文化大革命が起きました。

このとき、小平(とうしょうへい)たちは共産主義国家の中国でも資本主義のよいところを取り入れようとしたが、毛沢東(もうたくとう)や4人組らは小平たちを走資派そうしは(資本主義者の手先)として糾弾きゅうだんしました。権威主義打倒けんいしゅぎだとうというのもこのころいわれていたことです。

子が親を学生が先生を糾弾されたり、影絵や京劇きょうげきといった中国の伝統芸能もこの時代に弾圧だんあつされました。

この映画にも、看護学校の女生徒たちが教授をリンチし、病院から追い出してしまい、看護学校の生徒が教授の代わりに医者をやっているというおかしな光景が出てきます。






オマケ 

この映画の主人公の特技である影絵の動画が見つかったのでご紹介します。



活きる
活きる
クチコミを見る



奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)
奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)
クチコミを見る


ヘレン・ケラーの偉大いだいさは知っていましたが、彼女が大変な親日家しんにちかだったことは最近まで知らなかったです。

自分の家の中を日本風にしたり、庭にとうろうを置いたり、日本犬までったりしたそうです。ほかにも温泉も好きだし、さしみも日本酒も愛したそうです。

へレンを日本にまねいたのは岩橋武夫。岩橋は長くヘレンと交流をした人物です。その岩橋とともに厳島神社(いくつしまじんじゃ)にもおとずれたそうです。それは恩師のサリヴァン先生を亡くして間もないころだったそうです。

厳島神社いくつしまじんじゃで思い出しましたが、僕も厳島神社いくつしまじんじゃに訪れたことがあります。よいところですよ。まるで竜宮城みたい。



BlogPaint


BlogPaint


BlogPaint


DSC_1827



さて、厳島神社いくつしまじんじゃのそばの宿舎についた岩橋は、ヘレンに「ヘレン、今日はサリヴァン先生をおまつりしましょう。」といったそうです。

夜になって、厳島神社いくつしまじんじゃにはたくさんの数の灯ろうに灯が灯りました。その光景が、秘書の通訳によって手を通して伝えられるとヘレンはなみだを流して、亡きサリヴァン先生への感謝の意をこめて追悼(ついとう)をしたそうです。

ヘレンには肉眼にくがんでは、とうろうやの厳島神社いくつしまじんじゃ風景は見えなくても、心の目でみることができたのです。

彼女は人一倍感性が豊かな人でした。だからこそ、「私は見えないためにかえって、強く日本の精神にふれることができた」と語ったのかもしれません。





※参考文献

『そのとき歴史が動いた』(NHK取材班編)


このページのトップヘ