山本五十六の秘話
1 ギャンブル好きだった?五十六
山本五十六(やまもといそろく)がマージャンやポーカーといったギャンブルが好きだった事は、本を読むまで知らなかったです。日本が生き残るか滅びるかの大変な状況の中で、そういったものが五十六にとって良い息抜きになっていたと思われます。息抜きもそうだが、ギャンブルを通して勝負のカンをみがいていたのかもしれません。
後に五十六はムチャともいうべき真珠湾攻撃を断行するのですが、ある意味ギャンブル好きの彼らしい決断w?
とはいっても、五十六は行当たりばったりの人間ではなく、ちゃんと先見の目もあったようです。当時の日本は戦艦大和が象徴するように一種の巨大戦艦信仰がありました。巨大戦艦信仰が根強い中でも、五十六は、戦艦よりも戦闘機の方が役に立つ事を理解していていました。
2 アメリカとの戦争に反対した五十六
山本五十六はアメリカにわたって圧倒的な国力を身を持って体験しました。それで、「日本はアメリカと戦争をするべきではない」と、五十六は理解しました。
だから五十六は、ドイツとイタリアとの同盟に反対していました。当時のドイツはアメリカと対立していて、もしドイツと組めば、アメリカとの戦争は避けられないと五十六は考えていました。そんな事もあってアメリカにくしの右翼から命をねらわれることもあったとか。
しかし五十六の意思とは裏腹にドイツとイタリアと日本とで三国同盟は結ばれ、日本とアメリカとの戦争が避けられなくなりました。
ここで、五十六はどうしたのでしょうか?
五十六は真珠湾にてアメリカ軍を攻撃し、アメリカの戦意を失わせ、アメリカと早期に講和をしようと考えました。
「アメリカとの戦争を避けられない以上は、やるしかない。でも、やるからには早く戦争をおわらせねばならない」と思ったのかもしれません。このときの五十六の苦悩は計り知れません・・・・
ところが、外務省のミスで宣戦布告の通知がおくれてしまい、通知よりも先に真珠湾でアメリカの艦隊を爆撃をしたために、「日本、今に見てろよ!」ってアメリカの戦意を失うどころか、かえって怒らせてしまいました。
これは五十六にとって、いや日本にとって大変なミスだったようです。「後悔先に立たず」。そんな言葉が思わず浮かびます・・・
3 よき家庭人の山本五十六
ところで、五十六は戦場という修羅場をはなれ家庭に戻れば、子どもにめっぽう甘いお父ちゃんだったようです。子どもといいっしょに食事をしたりする事はほとんど無かったものの、体が弱かった息子のことを気遣い、メロン、パパイヤ、マンゴーといった高いものを息子に買ってあげたそうです。病気で授業におくれるとイラだつ息子に「休んでおれ」ともいったとか。
しかし、真珠湾間近の12月3日の夜の山本家はさすがに重苦しい雰囲気だったそうです。その時の献立はみそ汁と野菜の煮物と小さなタイだったが、五十六はタイだけは手をつけなかったといわれています。
タイはおめでたさを象徴するお魚です。それに手をつけなかったということは、おめでたい気持ちになれなかったのでしょう・・もうこの家に生きてもどることは無いであろうと五十六は感じたのかもしれません・・・
真珠湾攻撃以降アメリカと日本の戦争はドロ沼化。山本五十六は60をこえたにもかかわらず戦闘機に乗りこみ、アメリカの攻撃にあい亡くなりました・・・。
オマケ
山本五十六の映画の予告編の動画を見つけたのでご紹介します。僕はまだ見た事がないので、今度レンタルしてみようかと。


聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実- [DVD]
参考文献


海燃ゆ―山本五十六の生涯
山本五十六(やまもといそろく)がマージャンやポーカーといったギャンブルが好きだった事は、本を読むまで知らなかったです。日本が生き残るか滅びるかの大変な状況の中で、そういったものが五十六にとって良い息抜きになっていたと思われます。息抜きもそうだが、ギャンブルを通して勝負のカンをみがいていたのかもしれません。
後に五十六はムチャともいうべき真珠湾攻撃を断行するのですが、ある意味ギャンブル好きの彼らしい決断w?
とはいっても、五十六は行当たりばったりの人間ではなく、ちゃんと先見の目もあったようです。当時の日本は戦艦大和が象徴するように一種の巨大戦艦信仰がありました。巨大戦艦信仰が根強い中でも、五十六は、戦艦よりも戦闘機の方が役に立つ事を理解していていました。
2 アメリカとの戦争に反対した五十六
山本五十六はアメリカにわたって圧倒的な国力を身を持って体験しました。それで、「日本はアメリカと戦争をするべきではない」と、五十六は理解しました。
だから五十六は、ドイツとイタリアとの同盟に反対していました。当時のドイツはアメリカと対立していて、もしドイツと組めば、アメリカとの戦争は避けられないと五十六は考えていました。そんな事もあってアメリカにくしの右翼から命をねらわれることもあったとか。
しかし五十六の意思とは裏腹にドイツとイタリアと日本とで三国同盟は結ばれ、日本とアメリカとの戦争が避けられなくなりました。
ここで、五十六はどうしたのでしょうか?
五十六は真珠湾にてアメリカ軍を攻撃し、アメリカの戦意を失わせ、アメリカと早期に講和をしようと考えました。
「アメリカとの戦争を避けられない以上は、やるしかない。でも、やるからには早く戦争をおわらせねばならない」と思ったのかもしれません。このときの五十六の苦悩は計り知れません・・・・
ところが、外務省のミスで宣戦布告の通知がおくれてしまい、通知よりも先に真珠湾でアメリカの艦隊を爆撃をしたために、「日本、今に見てろよ!」ってアメリカの戦意を失うどころか、かえって怒らせてしまいました。
これは五十六にとって、いや日本にとって大変なミスだったようです。「後悔先に立たず」。そんな言葉が思わず浮かびます・・・
3 よき家庭人の山本五十六
ところで、五十六は戦場という修羅場をはなれ家庭に戻れば、子どもにめっぽう甘いお父ちゃんだったようです。子どもといいっしょに食事をしたりする事はほとんど無かったものの、体が弱かった息子のことを気遣い、メロン、パパイヤ、マンゴーといった高いものを息子に買ってあげたそうです。病気で授業におくれるとイラだつ息子に「休んでおれ」ともいったとか。
しかし、真珠湾間近の12月3日の夜の山本家はさすがに重苦しい雰囲気だったそうです。その時の献立はみそ汁と野菜の煮物と小さなタイだったが、五十六はタイだけは手をつけなかったといわれています。
タイはおめでたさを象徴するお魚です。それに手をつけなかったということは、おめでたい気持ちになれなかったのでしょう・・もうこの家に生きてもどることは無いであろうと五十六は感じたのかもしれません・・・
真珠湾攻撃以降アメリカと日本の戦争はドロ沼化。山本五十六は60をこえたにもかかわらず戦闘機に乗りこみ、アメリカの攻撃にあい亡くなりました・・・。
オマケ
山本五十六の映画の予告編の動画を見つけたのでご紹介します。僕はまだ見た事がないので、今度レンタルしてみようかと。
聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実- [DVD]
参考文献
海燃ゆ―山本五十六の生涯
周恩来を怒らせた一言〜日中国交正常交渉の舞台裏〜
「添了麻煩」
どういう意味でしょう?
実は「添了麻煩」の言葉が出てきたのは、1972年の中国交正常交渉のときです。この言葉を日本側の通訳が周恩来に語った途端に、周恩来は血相を変えて怒りました。場の空気もその一言で一瞬で凍ってしまったそうです。
どうしてでしょう?
交渉に臨んだ田中角栄が「先の大戦で中国に日本は大変な迷惑をかけた」と述べ、その「迷惑をかけた」を「添了麻煩」と通訳は訳したそうです。
周恩来が激怒した理由は「添了麻煩」では、お詫びの言葉としては非常に軽いから。僕はまだ中国語初心者だから、あんまり中国語のニュアンスの違いについては良くわからないのですが、そんなにお詫びの言葉としては軽い表現なのでしょうか?
日本語の「迷惑」という漢字をそのまま中国語にすると「正気をうしなう、迷う」って意味になるそうです。「日本は中国を迷わせました」じゃおかしいですしw
でも、「添了麻煩」という言葉が軽いお詫びの意味であると日本側の通訳が知らなかったわけではないそうです。これは、日本の親台派の反発を恐れて、このような表現を用いたそうです。親台派とは中国大陸よりも台湾を支持する政治家のこと。親台派の政治家といえば、元総理の岸信介さん、福田赳夫さん等がそうでした。最近では石原慎太郎さんも親台派の政治家といえそうです。
先の大戦で「日本は中国に対して本当に悪い事をした、ごめんなさい!!」という気持ちはある。けれど、あんまりへりくだった言い回しをすれば、今度は国内の親台派から「土下座外交」と批判をされてしまう。
何回も何回も原稿を推敲して、角栄や外務省の官僚が考えに考え抜いてやっと出てきたのがこの表現なのだといわれています。
中国側は「添了麻煩」という言葉に「日本の戦争に対する歴史認識が現れている」と不快感を示し、日本側は「言葉尻を捉えた言いがかりではないか?」と困惑するばかり。言葉の使い方は、難しいですね。
ともあれ、この交渉で日中国交正常化はされたのは、歴史が示すとおりです。
(参考文献)

日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録
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どういう意味でしょう?
実は「添了麻煩」の言葉が出てきたのは、1972年の中国交正常交渉のときです。この言葉を日本側の通訳が周恩来に語った途端に、周恩来は血相を変えて怒りました。場の空気もその一言で一瞬で凍ってしまったそうです。
どうしてでしょう?
交渉に臨んだ田中角栄が「先の大戦で中国に日本は大変な迷惑をかけた」と述べ、その「迷惑をかけた」を「添了麻煩」と通訳は訳したそうです。
周恩来が激怒した理由は「添了麻煩」では、お詫びの言葉としては非常に軽いから。僕はまだ中国語初心者だから、あんまり中国語のニュアンスの違いについては良くわからないのですが、そんなにお詫びの言葉としては軽い表現なのでしょうか?
日本語の「迷惑」という漢字をそのまま中国語にすると「正気をうしなう、迷う」って意味になるそうです。「日本は中国を迷わせました」じゃおかしいですしw
でも、「添了麻煩」という言葉が軽いお詫びの意味であると日本側の通訳が知らなかったわけではないそうです。これは、日本の親台派の反発を恐れて、このような表現を用いたそうです。親台派とは中国大陸よりも台湾を支持する政治家のこと。親台派の政治家といえば、元総理の岸信介さん、福田赳夫さん等がそうでした。最近では石原慎太郎さんも親台派の政治家といえそうです。
先の大戦で「日本は中国に対して本当に悪い事をした、ごめんなさい!!」という気持ちはある。けれど、あんまりへりくだった言い回しをすれば、今度は国内の親台派から「土下座外交」と批判をされてしまう。
何回も何回も原稿を推敲して、角栄や外務省の官僚が考えに考え抜いてやっと出てきたのがこの表現なのだといわれています。
中国側は「添了麻煩」という言葉に「日本の戦争に対する歴史認識が現れている」と不快感を示し、日本側は「言葉尻を捉えた言いがかりではないか?」と困惑するばかり。言葉の使い方は、難しいですね。
ともあれ、この交渉で日中国交正常化はされたのは、歴史が示すとおりです。
(参考文献)

日・中・台 視えざる絆―中国首脳通訳のみた外交秘録
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意味深な勝海舟の言葉 後編

氷川清話 (講談社学術文庫)
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1 中国との戦争に反対した勝海舟
明治のころは、朝鮮半島をめぐって日本と中国(清)がはげしく対立し、両国は戦争になってしまいました。。でも、勝海舟(かつかいしゅう)は日清戦争を反対していたそうです。(日清戦争)。
2 氷川情話より
”かちうみぶね”じゃなかったw勝海舟がどんな事を言っていたか?それは、『氷川清話』(ひかわせいわ)に書いてあります。以下「『氷川清話』より引用します。
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟ケンカだもの。犬も喰はないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国のやつらが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。」
「一体支那5億の民衆は日本に取っては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。」
3 勝が心配していたことが現実に
勝海舟が心配していたことは、日清戦争後に現実のものになります。日清戦争(下関条約)で手に入れた遼東半島はけっきょくロシア・ドイツ・フランスが間に入って中国に返すようになったし、ロシアも朝鮮半島のちかくまで南下してしまいます。
昭和に入ってからも、日中両国の関係は悪化するばかり。そうしておきたのが日中戦争です。日本は「中国なんて弱い、ラクショーじゃんw」と思っていたようですが、実際は戦争はドロ沼化します。元日本兵だった男性は中国兵のことを「強かったですわ」と語っております。
日清講和記念館。ここで下関条約が行われた。山口県下関の春帆楼(しゅんぱんろう)という旅館にある。
日清講和記念館の中。実際に条約が行われたところ。
オマケ
今日は日本だけでなく、中国の人にも人気のある谷村新司さんの歌を。曲は「昴」。中国では「星」という題で親しまれています。
谷村新司さんは、中国の人にとても尊敬されていて、「日中友好の使者」だと絶賛されています。
http://www.youtube.com/watch?v=4_UXWMwq03Q
(映らなかったらごめんなさい)
また、こちらの記事もよろしかったらどうぞ。

意味深な勝海舟の言葉
意味深な勝海舟の言葉 前編

氷川清話 (講談社学術文庫)
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今年もあとわずか。今日取り上げるのは勝海舟(かつかいしゅう)。
”かちうみぶね”じゃありませんよw、”かつかいしゅう”ですから。
NHKの「歴史秘話ヒストリア」で勝海舟の事を取り上げられました。勝海舟の功績は西郷隆盛(さいごうたかもり)と会談し、江戸の町を戦火から救った事です。明治維新後も勝海舟は、旧幕臣の面倒を見たり、ご意見番として活やくしたそうです。
勝海舟は21世紀の現代に通じるような?事を言っていました。その言葉の数々を取り上げます。
- 「行政改革という言葉。よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。全体改革という言葉公平でなくてはいけない」
- 「大きいものからはじめて小さいものを後にするといいよ。言いかえれば改革者が一番に自分を改革するのさ」
- 「帰り道に裏店社会(※1)へ立ち寄って不景気の実情を聞いたが、この先四、五日の生活が続こうかと心配している者があちこちにあったよ。今の政治家には、こんなささいな所まで注意する人はあるまい」
- 「御前とか閣下とか、そんなおべっかばかり聞いておらずに、大臣なども少しは江戸っ子の飾り気のない巻き舌でも聞いてみるが薬だよ」
『氷川清話』(ひかわせいわ)より
なんだか、いまの政治家たちに聞かせてやりたい言葉ですなあw
改革、カイカクといいながら、権力におぼれ堕落していく政治家は明治時代にもいたことがわかります。
明治時代というとすごく華やかなイメージがありますが、庶民が苦しい思いをしました。それに足尾鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)など公害事件もありましたし、製糸工場の女工さんも苛酷な労働を強いられていました。そうした庶民の犠牲の上に成り立っていたのが明治という時代でした。明治政府の政治のあり方や社会のムジュンを勝海舟は苦々しく思ったわけです。
そういったムジュンを抱えたまま、明治、大正、昭和へと時は流れ、やがて日本は戦争の道を進んでんでいきます・・・