History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)



(よろしければアンケートお願いします)

もう冬ですね。一年の早さを感じます。冬といえば雪。東京ではまだ雪は降っていないけれど、すでに雪が降っているところもあるようで。雪って強くなったり、積もったりしたら嫌だけれど、チラチラと雪が降る光景はロマンチックです。そのため雪は昔から歌の題材にも扱われました。雪をテーマにした歌はたくさんありますが、僕はレミオロメンの『粉雪』だな。ボーカルの藤巻良太さんの歌声にほれぼれします。Aメロの静かにも優しく歌い声からサビのパワフルな歌声。歌の主人公が雪の中を自分の気持ちを大声で叫ぶ光景が浮かびます。生で藤巻さんの『粉雪』聴きたいな。



あと、雪の歌といえば新沼謙治さんの『津軽恋女』も名曲。新沼謙治さんの美声もそうだけれど、曲が実にいいんですよね。歌詞にでてくる、「津軽には七つの雪が降るとか」というくだり。ほんとうに津軽地方に七種類の雪が降るのでしょうか。実はこれは雪の積もり方を言っているのであって、ほんとうに七種類の雪がふるわけじゃないそうです。しかも七つの雪も『津軽恋女』がオリジナルではなく、太宰治の小説『津軽』の冒頭に七つの雪がでてくるのですね。
さらに、その7つの雪も太宰治のオリジナルではなく、「東奥年鑑」に記述されているのですね。七つの雪は、戦前に東北地方の気象台・測候所が積雪の状況を協議して決めたといいます。



こなゆき 湿気ノ少ナイ軽イ雪デ息ヲ吹キカケルト粒子ガ容易ニ飛散スル
つぶゆき 粒状ノ雪(霰ヲ含ム)ノ積モツタモノ
わたゆき 根雪初頭及ビ最盛期ノ表層ニ最モ普通ニ見ラレル綿状ノ積雪デ余リ硬
(以下略)
『東奥年鑑』(昭和16)より


それが太宰治の小説、それから『津軽恋女』へと使われているのです。



という具合。


※ 参考サイト
https://www.data.jma.go.jp/aomori/pub-relations/pdf/yuki/yuki2022_03b.pdf

江戸時代、名君と言われた人がいました。会津藩主の保科正之です。2代将軍徳川秀忠の子で、家光の母親違いの弟です。33歳の時に会津藩主になります。保科の前の藩主が悪政を敷いていたので、領民は疲弊し、疫病にも苦しんでいたのです。他藩に逃亡する人間もいる始末。

それで、保科は領民第一の政治を行いました。保科の政治の根底にあったのは「仁」。全ての人に健康と福祉を推進した名君だったのです。



保科は社倉制という政策をとりました。社倉制とはまず、藩が米を買い占めます。そして共作の年に領民に貸し出します。生活に困った領民は2割の利息で米を借りることができたのです。次の年、年貢を納めるときに利息と共に借りた米を返済する決まりになっているのですが、たとえ生活に困って返せなくても、利息を払わなくて良いのです。その年の年貢も納めなくても、待ってくれるということです。ずいぶん寛大な処置ですね。

さらに社倉制でえた利息分も、藩のもうけにしないで、その利息で米を買い、飢饉の時に備えたと言います。そのため、会津藩では飢饉になっても、餓死者を出さなかったと言います。


 
お話は保科が生まれる前にさかのぼります。実は保科正之の母が、身籠った時、徳川秀忠の妻、お江与の嫉妬を買ったのですね。それで、一度はお腹の子をおろそうとしたのです。そのお腹の子こそ保科正之だったのです。もし、母親がおろしていたら、保科はこの世にいなかったでしょう。そのため保科は命を守りたいという意志が強かったのです。それで、領民に間引きを禁じたのです。

さらに保科は旅人にも心遣いをしました。領内にやってきた旅人が倒れたら、医者に連れて行くように政令を出したのです。その旅人がお金を持っていなかったら、藩がお金を出したのです。



高齢者の保護も手厚く行いました。領内の90歳以上の領民全てに一日5合分の米を毎年支給したのです。ある年は該当者が百人以上にも及びましたが、分け隔てなく配ったので、涙を流して喜んだ者もいたのです。

また、保科は4代将軍家継の時代に幕閣の1人に任命され、そこでも人命を守る政治を行いました。明暦3年(1657)1月18日から20日(いまの3月2日 - 4日)の三日間、明暦の大火が起こりました。火事とケンカは江戸の華といいますが、それくらい江戸は火事が多かったのです。明暦の大火はとりわけ被害が大きかったのです。火災は三日間にもわたり、江戸の6割を焼き尽くしたのです。明暦の大火は本郷にあった日蓮宗本妙寺で発生。その火は風にあおられ、あっという間に周囲に燃え広がりました。また『むさしあぶみ』という文献によると「はげしき風に吹きたてられて車輪のごとくなる猛火地にほとばしり」という記述もあります。これは火災旋風(火の竜巻)までが起こったことを意味しております。それくらいひどい火災だったのですね。



(火災旋風)

大名屋敷160軒、旗本屋敷810軒、町人地(町人たちがすむ住宅街)800町以上も消失。しかも江戸城天守閣も焼けてしまいます。死者もおよそ10万2千100余人にもおよんだといいますから、いかにひどい火災だったかがうかがえます。これほど火災が広がったのは消防システムの脆弱さとあまりに江戸の町が密集しすぎていたからです。

一応、大名火消しという消防団があったのですが、これがあまり役にたたないもので。幕府から任命された大名が10日交代で火消しの役を担ったのです。しかし、この大名火消し、火災が大名屋敷で起こったら出動したものの、町人地でおきたときは出動しなかったのです。つまり町人地で火事が起こっても知らんぷり。そんな大名火消しを「消さぬ役」と皮肉ったほど。

町人地では町人たちが火災は自分たちで消しなさいというのが幕府の方針。つまり武士と町人たちが火災にあってもお互いに協力しようという姿勢がなく、それどころか、武士は町人たちを犬畜生かのように見下していたのですね。同じ人間と思っていない。まさに人間軽視だったのです。実際、明暦の大火で武士たちは火災でさほど被害を受けておらず、火災で亡くなったのは町人たちがほとんど。つまり武士たちは町人が火あぶりになっても知らんぷり。これでは助かるはずの命も助かりません。

火は三日で収まったものの、被災者たちは身も心もズタズタです。家も焼かれ、家族や友達を失ったもの。保科はまず、被災者のために、お粥の炊き出しをしました。その粥は幕府の米蔵から使われました。しかも、老人や病人には塩分控えめの粥を配るという配慮。

焼けた家屋の再建のため、幕府から資金も保科は渡しました。家康以来貯めてきた御金蔵も使ったのですね。これには幕閣も猛反対。今のご時世でいうならコロナ給付金みたいなものですね。しかし、江戸時代には、民間人のために政府がお金を使うなんてことはありえなかったこと。御金蔵はあくまで、いざ戦争になったときの備えだという認識が幕閣の間にあったのですね。それを保科は「お金は下々の人々を救うためにあるのだ。金を貯めるだけでは、それはないものと同じ」と幕閣たちを説得。大名や幕臣だけでなく町人たちにも返済義務のない援助金をわたしたのです。その総額はいまの価値で200億円だというから驚きです。

さらに保科は火災で亡くなった無縁仏の供養塚も作ったり、江戸城再建をやめたりしたのですね。

もちろん、江戸の町再建は保科ひとりだけの手柄ではなく、知恵伊豆こと松平信綱らの活躍もありました。幕府は町中に広小路という空き地を作って、火災の被害をすくなくしようとしたのです。有名なのは上野にあった広小路。いまも地下鉄の駅名(上野広小路)にもなっております。

江戸城内にあった御三家の屋敷も移転、被災した大名たちの屋敷も当時は野原が広がっていた麻布などに新たな屋敷を与えたり。本郷や湯島にあった寺も、当時は発展途上だった浅草に移されたり。また墨田川には橋がなかったので多くの人が亡くなったのですね。それで、立派な橋をかけてあげたり。万治2年(1659)には両国橋が完成。そして両国橋の先の本所をニュータウンとして開発。のちの『忠臣蔵』に出てくる吉良邸も本所に移されるのですね。また赤穂浪士たちも両国橋をわたって吉良邸に討ち入りするのですね。もし、両国橋がなかったら、赤穂事件はなかったかもしれない。

また幕府は消防システムも整えました。従来の大名火消しに加え、定火消じょうびけしを組織をつくりました。今でいう消防隊ですね。


 
※この記事は『英雄たちの選択』、『にっぽん!歴史鑑定』を参考にしてかきました。

飛鳥時代の政治家、蘇我入鹿って悪者ってイメージがあります。それにしても、蘇我入鹿の名前おぼえずらいですね。子供のころ、僕は入鹿のことを、魚のイルカ🐬のことをイメージしながら名前を覚えた記憶があります。あと、入鹿をやっつけた中臣鎌足。かれのことは鎌足ではなくカタマリって覚えた記憶がありますw昔の人の名前は難しいですからね。

その蘇我入鹿がやっつけられた事件が 乙巳 いっしの変。これは中大兄皇子と中臣鎌足が、悪者の蘇我入鹿をやっつけて、その父親の蘇我蝦夷も自殺したという、有名なクーダターです。しかも、入鹿は時の天皇皇極天皇の前で無残に殺されてしまうのですね。

蘇我親子を倒したクーデターのことを「大化の改新」だと勘違いしがちですが違います。クーデターのことを乙巳の変と言い、大化の改新はそのクーデターの後の政治改革のことを言います。さて日本書紀によると蘇我入鹿が、聖徳太子の息子である山背大兄王を自害に追いこんだ悪者だと。そして入鹿は専横をおこなったと。それで正義の中大兄皇子と中臣鎌足がやっつけたことになっています。そうした日本書紀の書き方に近年疑問の声が上がっているのですね。むしろ、権力抗争に巻き込まれた気の毒な人ではないかって説もあるのです。

その「日本書紀」は681年に天武天皇が、藤原不比等ら六人の皇族と六人の役人、総勢十二人に国史編纂ヘンサンを命じたのですね。全30巻。神代の時代から持統天皇の時代まで描かれているのですね。「日本書紀」は我が国初の正史です。完成したのが720年。40年近くかかったのだから、いかに大きなプロジェクトだったかが伺えます。ただ、歴史というものは勝者の歴史。戦争や権力抗争やらで権力を握ったものにとって都合の良い歴史が書かれていることが多いのですね。「日本書紀」も例外ではありません。『日本書紀』の編纂を命じたのは天智天皇の弟。そして、編纂の中心人物は藤原不比等。藤原不比等は鎌足の息子、どうしても天智天皇や天武天皇、そして藤原家にとって都合の良いことしか書かれていないはず。



入鹿が山背大兄王を自害に追い込んだ理由は古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこおを皇位につけたかったのですね。蘇我の血をひく古人大兄皇子が天皇になれば、蘇我家の権力がますます強くなる。古人大兄皇子は蘇我系の血を受けた舒明天皇の第一皇子で、もう少し早く生まれていたら、皇位に就いていてもおかしくない人物でした。ところが、蘇我入鹿が殺され頼みとする後ろ楯を失い、最後は出家、隠退したのですが、不幸にも古人大兄皇子は異母弟・中大兄皇子が差し向けた刺客に殺害されたのですね。

古人大兄皇子が天皇になるのを恐れたのが中大兄皇子でありますが、もっともそれを恐れたのが軽皇子カルノミコ。軽皇子は時の天皇の皇極天皇の弟で、中大兄皇子は軽皇子の甥です。皇極天皇の後継者は古人大兄皇子か中大兄皇子だといわれており、軽皇子は蚊帳の外だったのです。で、中大兄皇子は天皇に即位するには若すぎる。となると、軽皇子のライバルは古人大兄のみ。それで、軽皇子は中大兄皇子と結託し古人大兄皇子を排除する必要がある。古人大兄皇子のバックには蘇我家がついている。その蘇我家を滅ぼせば自分にも天皇の座が回ってくる。そんなことを軽皇子が考えたという説もあるのですね。

実際、 乙巳 いっしの変の後、皇極天皇の後継者は軽皇子になりました。そして軽皇子は孝徳天皇となったのです。あまりにもタイミングが良すぎるのですね。しかも、中大兄皇子とともにクーデターにかかわった藤原鎌足は、軽皇子の側近。もちろん、軽皇子が黒幕だと断定はできないのですが、少なくとも蘇我入鹿が『日本書紀』で言われるほどの悪人とはかんがえにくいのですね。

*この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。





「観応の擾乱」。この言葉を初めて知ったのは僕が大学受験生だった頃。日本史の授業で知りました。僕は当時、代々木ゼミナールに通っていて、その時、菅野祐孝先生という方に習っておりました。その先生が「観応の擾乱」を「菅野の冗談」って覚えろって言われましたw。「観応の擾乱」の「観応」は宴号、「擾乱」とは揉め事って意味です。観応の擾乱は平たく言えば、足利尊氏と足利直義の兄弟喧嘩です。

しかし、ただの兄弟喧嘩ではなく様々な人間関係が入り混じった複雑な事件でした。

事件の発端は、足利直義と高師直の対立から始まります。足利尊氏が征夷大将軍になって幕府を開き、宿敵の後醍醐天皇も亡くなったことで、南朝が生き残っているとはいえ、尊氏もまずは一安心。尊氏は軍事を、弟の直義は行政を行い、そして執事の高師直がサポートするという、尊氏、直義、高師直のトロイカ体制は盤石かと思われました。しかし、直義と師直の対立は日に日に高まるばかり。それで直義は尊氏に直訴し、師直を執事罷免させます。しかし、それでめげないのが師直。逆に師直は仕返しに直義を引退に追い込むのですね。ところが、その一年あまり後に、直義が宿敵の南朝と手を結ぶという奇策に出るのですね。そして、直義は尊氏&師直に戦いを挑むのですね。とは言いましても、直義は兄貴である尊氏のことは憎んでいないのです。あくまで高師直のことが嫌だったのですね。


尊氏を裏切り直義に寝返る武将が続出し、直義軍の勝利。そして、高師直とその弟の高師泰が殺されてしまうのですね。高師直兄弟を殺めてたのは直義の仕業だとか。師直を信頼していた尊氏は悲しみ、直義との関係が悪くなるのですね。それでも尊氏と直義はすぐ和睦を結ぶのです。尊氏と直義は血を分けた兄弟。2人とも戦いたくはないのです。2人は今後の幕府の運営について話し合ったのですね。基本的に政務は尊氏の子である足利義詮が担い、直義は義詮を補佐する。武士たちに与える恩賞論考は尊氏がやると。そして、同じく尊氏の子である足利直冬を鎮西探題(九州)に任命。これで一件落着かと思いきや、この人事はのちの波乱を生むのです。

まず、次の将軍だと目されている義詮と、直義の関係が非常に良くない。まして義詮は高師直のことをとても信頼していたのですね。信頼する部下を殺した直義のことを憎んでいたのです。また鎮西探題を担うことになる直冬は、尊氏との関係がよろしくないのです。直冬は尊氏の子供は言っても、直冬の母親は身分が低かったのです。だから尊氏は直冬に対して冷たい態度をとっていたのです。その直冬を不憫に思ったのが直義。直義は、直冬を養子として迎え入れたのですね。

それと、尊氏は負けた側なのに、なぜか恩賞充行アテオコナイ権(※1)になったこともまずかったのですね。本来、恩賞は勝ったはずの直義がやるべきなのに。この時代の武士は忠義よりも恩賞をくれる大将、あるいは自分にとってメリットがありそうな大将についたのですね。。楠木正成みたいな人は珍しかったのですね。尊氏も十分な恩賞を与え満足させないと武士たちは自分の言うことを聞いてくれないことをよく知っていたのですね。逆に言えば、恩賞さえ与えれば、武士達は自分の言うことを聞いてくれる。いくらトップがヘリクツを言っても、恩賞をくれない人間の言うことなど武士は聞かない。だから、この時代、恩賞を左右する立場の人は強いんですね。尊氏は恩賞担当をやらせてくれと直義に頼んだし、直義も兄貴の言うことだかと遠慮があったのですね。

それから直義は南朝との関係を良くする試みます。一時的な和睦ではなく、今後とも仲良くしてきましょうと。が、これは不発に終わります。南朝側は元々直義のことは良く思っていなかったのです。和睦なんて口先だけで、直義は北朝の利益しか考えていないことを見抜かれてしまったのです。また、直義は南朝と北朝とで交代交代で天皇を出せば良いと主張。これに対し、南朝は「俺たち南朝こそ正統だ!」って聞かないのです。むしろ南朝はいざとなれば戦う姿勢を崩さない。それで尊氏は南朝を討つために挙兵するのです。その挙兵を、悪いことに、直義は自分を討つための挙兵だと勘違いしてしまうのですね。こうした誤解がさらなる混乱を招くのです。そして、各国の武士達は直義につくか、尊氏につくか二分してしまうのです。

さらに義詮は、観応2年(1351)に御前沙汰ゴゼンサタと言う期間を設置します。この期間は恩賞の査定だけで無く、裁判も担っていたのです。そのため、御前沙汰を作った義詮の権限は強くなり、直義の居場所がなくなったのですね。直義は逃げるように、直義側についた畠山国清や桃井直常武士達と共に北陸へ向かったのですね。そして越前(今の福井県)にあった金ヶ崎城を拠点としていたのです。そして、直義と義詮&尊氏は再び戦うことになるのです。戦いの場所は近江国(今の滋賀県)の八相山ハッソウザン。とは言いましても、直義が戦場に出向いたのではなく、畠山国清や桃井直常ら武将達にたたわせて、直義は金ヶ崎城にこもっていたのですね。やはり兄貴と直接刃を交えることに後ろめたさがあったのでしょうね。この戦では尊氏がわの勝利。観応2年10月2日、近江国錦織興福寺で尊氏と直義は対面し、和睦をしようとしますが、結局破綻。直義は鎌倉に行ってしまいます。この年の12月に、直義と尊氏は再び戦火を交える羽目になります。尊氏と直義は仲直りしたいし、足利義詮ほか一部の強硬派を除けば、武将達の間で、不毛な戦いはもうやめようって厭戦気分が漂っていたのにも関わらず。

話を少し戻して、尊氏は観応2年の8月ごろから、南朝に接近していたのですね。複雑ですね。初めは南朝も難色を示したのが、二ヶ月かかって12月3日に和平は成立。その和平の全権を任されたのが、義詮。講和の条件は二つ。

1 後醍醐天皇が行った新政の時代に戻す。つまり南朝こそ正統だと認める。
2 直義を追討する。


この条件に義詮はサインしてしまったのですね。南朝と仲良くする代わりに直義を討てと。こうなったら、直義を攻めざるをえなくなる。尊氏は不満を持ったそうです。なぜなら実の弟を討たなくてはならなくなったから。義詮と尊氏のすれ違いが感じられます。それでも尊氏は直義を討伐すべく直義のいる鎌倉に兵を向けました。本当は嫌だったろうな。義詮も自分も戦うと行ったのですが、尊氏はそれを拒否しました。おそらく尊氏は直義との和平を諦めていなかったのでは。義詮を連れてきたら、それこそ殺せと言いかねない。実際、義詮は武力で持って直義を倒せって思っていました。

でも、幕府の政治基盤を安定させるために、尊氏は実の弟である直義を犠牲にするしかなかったのかなって僕は思うのですね。幕府の跡取りは義詮に決まり、幕府も義詮中心に回りつつある。そうなると、直義の存在が義詮にとって脅威。直義を生かしたところで、直義と義詮が戦争したら、それこそ世は乱れる。直義と義詮の仲は最悪なので。実の弟を救いたいが、かと言って世の中の秩序を乱す真似はしたくない。秩序を取るか、肉親への愛を取るか、尊氏はてんびんをかけたのかなって。


そして観応2年(1351年)、駿河国(今の静岡県)にある薩埵山サッタサン で尊氏軍と直義軍は激闘。しかし、直義はこの時も出陣せず、鎌倉にいたのですね。その時の直義の心境がありありと出ている直義が詠んだ歌が残されております。

暗きより 暗きに迷う 心にも 離れぬ月を 待つぞ はかなき

直義は最後の最後まで兄と仲直りしたかった。しかし、それが叶わぬような事態にまで追い込まれてしまった悲しさが伝わってきます。観応3年(1352年)1月5日に尊氏は鎌倉に入り、直義は降伏しました。この後、直義は浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉され、2月26日に急死したのですね。それから直義の死後、尊氏は九州にいる直冬に戦を仕掛けるのですね。戦に敗れたものの直冬はうまく逃げ延び、尊氏死後も生き延びたのですね。一説によれば、尊氏の孫の足利義満と直冬は和解したという話もあるほど。

こうして観応の擾乱と呼ばれる争いは終わるのです。



※1 充行とは、平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為をさして使われるようになった語。恩賞充行権とは、戦で手柄を立てた武士達に恩賞を与える権限のこと


※ この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。あと、こちらの本も参考にしました↓


YouTubeで「愛の貧乏大作戦」の動画が上がっているので、久々に見ております。本放送は1998年から2002年ごろまでテレ東系で放送されました。司会はみのもんたさんで、商売がうまくいかず借金だらけで困っているお店の店主を有名店に修行(主に飲食店)させるというもの。しかも、お店のリフォームは番組の制作費から出されるというから、なんともサービスが良い。

大抵の店主は、修行をするものの、その後はうまくいかず店をたたんでしまうのですが、一部の店主は成功を収めている店もあるのですね。例えば茨城県にある「ペンギン」というハンバーグ店は凄くて、バスツアーも組まれるほどの人気店です。

僕がリアルタイムで見た時は学生でした。その時は「社会は厳しいんだな」って思ったのですが、今改めて見ていると、本当に見ていられないのですね。店主がかわいそうで。中には本当に、どうしようもない、フォローもできない人もいるのですが、正直、発達障害じゃないかって思われる店主も結構多いのです。達人から、「お前、人の話を聞け!」とか「真剣にやれ!」って店主が怒られるシーンは番組でもおなじみなのですが、店主は、例外もいるが真面目にやっているのですね。発達障害は、人の話が聞けないのではなく、仕事に集中するあまりに話が聞けない、あるいは集中できないってケースが多いのです。いつの回か忘れましたが、店主は頑張っているんだけれど、達人の教えてもらっていることを頭ではわかっても、体がついていけない、その悔しさや辛さのあまり泣き出すシーンがありましたっけ。本人がいくら頑張っても、側から見ると、怠けているとか、やる気がないとしか見なされない。それが発達障害の人の辛さなのですよね。発達障害の人は見た目では、そうしたハンディがあることがわからないから、なおさら辛いと思う。

達人だけでなく、YouTubeに上がっている「愛の貧乏」の動画のコメント欄を見ても、店主はクズだとか、辛辣な意見ばかり。確かに、人間的に問題な人もいるが、大抵の店主は根は真面目なのだと僕は思う。ただ、向いてないだけだと思う。実際、発達障害の人は飲食業という職業は合っていないそうです。それに、やっている側からガーガー言われてパニクって、できる仕事も萎縮してできないってことも発達障害の人には非常に、あるあるなんですよね。健常者の方には、その辺の辛さってなかなか伝わりにくいのですが。


僕は人が怒られるシーンは好きじゃないので、リアルタイムで見た時も、あんまり良い感じがしなかったのですが、今改めて見ると、まるで発達障害の人を見せものにしているようで、なおさら見ていられないのですね。まして、「愛の貧乏」をリアルタイムで放送していた時代は、発達障害なんて世に広まっていなかった時代ですからね。(今でさえ、理解できない人が少なくないのに)

確かに、自営業だと、時間も自由だし、嫌な上司もいないから楽といえば楽なのですが、甘い考えでやっていたら潰れてしまいます。だからこそ真剣にやりなさいと達人たちが叱っているのは、理解できるのですね。実際、せっかく修行したのに、つぶれた店も多い。まして飲食業界は競争も激しく、大手や有名店でさえ潰れることだってあるから、生半可な気持ちでは店を維持できないと思う。

でも、本当に人格的に素晴らしいなって思う方もいらっしゃる一方で、商売のセンスや料理の腕はともかく人間的には❓って人もいましたっけ。テレビを見た人は、達人のことを「厳しいけれど、いい人だ」とか絶賛の嵐。でも、達人からしたら、大々的に自分の店を宣伝してもらえるのだから有難い話なんですよね。番組をやっていた当時でも、達人の店はますます栄え、店主たちは逆に置いてけぼりにされているって批判がありましたっけ。また、その達人のパワハラまがいな行動も実は番組側が仕込んだのではないかってウワサも聞いております。本来、達人は温厚な人で頭ごなしに怒鳴るような人ではないって話も聞いておりますし。


最近「愛の貧乏」の裏話みたいな動画もYouTubeに上がっておりますが、結構、画面には映らないところで、いろいろ裏があるんだなって。例えば、ある店主は達人に悪態をついていたのですが、その店主の家族が、実は店主は夜も寝ないで修行をしていたということを動画の中で話されていたのですね。テレビを見る限りでは店主がクズにしか見えないけれど、事実を知ると、店主が悪態をつきたくなるのもわからんでもない。

それと、この番組を改めて見ると、番組側の悪意を感じます。何年も板前経験のある優れた店主の作った料理も見るからに美味しそうなのに、ナレーションで「なんのひねりもない料理」と印象操作するあたりもヒデエなって。その店主が改めるとしたら接客態度くらいで、あとは店の立地だと思うのですが、そこまで言うかって思いましたもん。

この番組は、社会の厳しさを知る上で良い番組だといことで、学校の道徳の授業でも、生徒たちに見せていたという話も聞いたことがあります。が、裏を知れば知るほど、それも複雑。僕はある方から、世の中は半分が事実で、半分は嘘で成り立っていると言われたことがありますが、その通りだなって。



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