戦争が終わったものの、世界は冷戦状態となり緊張した状況に世界はなったのです。米ソ両国は宇宙開発に乗り出していったのです。宇宙開発と言えば、以前にアメリカのロケット開発者のフォン・ブラウンのことを取り上げたことがあります。
世界だけでなく日本でもロケットを作ろうという人も現れます。糸川英夫。糸川英夫は日本のロケットの父と言われております。東大の元教授で、かつては中島飛行機の技師で隼などの開発にもかかわっておりました。糸川はこう言います。
いたずらに欧米の後を追うのみでは、永久に後塵に排す恐れがある。将来の可能性に対し、積極的に研究を開始し、進んで技術の第一線に立つことが必要である。
糸川はまず手近な材料でロケットを作りました。長さたったの23センチ、重さも200グラム、世界一小さなロケットはペンシルロケットと呼ばれました。子供のおもちゃのような外見で、それこそユーチューバーの面白動画にでてきそうな感じの小さなロケットですが、このロケットには糸川ら科学者たちの夢が詰まっておりました。ペンシルロケットの発射実験は1955年4月、東京都下国分寺で行われました。その実験でロケットの飛行姿勢、エンジンの燃焼状況、加速状況などを計算したのです。その実験の模様はいまも映像に残っております。
その後、糸川は猛烈な勢いでロケットを作ったのです。実験を重ねるたびにつくったロケットも大きくなり、飛ぶ距離もどんどん伸びていきました。昭和33年9月に行われた、かっぱロケットKー6型の打ち上げ実験で使われたロケットは、ペンシルロケットの23倍の長さで重さは1300倍にも達したといいます。そのロケットは高度60キロまで到着したといいます。
自分にできる、できないは別にして世の中で欲しがられているもの、世間が必要としている仕事を探し、その仕事ができるように自分で能力を開発していくという方法のほうが、成功率が高い。
糸川の功績は称えられ、小惑星の名前にもなりました。「イトカワ」
世界だけでなく日本でもロケットを作ろうという人も現れます。糸川英夫。糸川英夫は日本のロケットの父と言われております。東大の元教授で、かつては中島飛行機の技師で隼などの開発にもかかわっておりました。糸川はこう言います。
いたずらに欧米の後を追うのみでは、永久に後塵に排す恐れがある。将来の可能性に対し、積極的に研究を開始し、進んで技術の第一線に立つことが必要である。
糸川はまず手近な材料でロケットを作りました。長さたったの23センチ、重さも200グラム、世界一小さなロケットはペンシルロケットと呼ばれました。子供のおもちゃのような外見で、それこそユーチューバーの面白動画にでてきそうな感じの小さなロケットですが、このロケットには糸川ら科学者たちの夢が詰まっておりました。ペンシルロケットの発射実験は1955年4月、東京都下国分寺で行われました。その実験でロケットの飛行姿勢、エンジンの燃焼状況、加速状況などを計算したのです。その実験の模様はいまも映像に残っております。
その後、糸川は猛烈な勢いでロケットを作ったのです。実験を重ねるたびにつくったロケットも大きくなり、飛ぶ距離もどんどん伸びていきました。昭和33年9月に行われた、かっぱロケットKー6型の打ち上げ実験で使われたロケットは、ペンシルロケットの23倍の長さで重さは1300倍にも達したといいます。そのロケットは高度60キロまで到着したといいます。
自分にできる、できないは別にして世の中で欲しがられているもの、世間が必要としている仕事を探し、その仕事ができるように自分で能力を開発していくという方法のほうが、成功率が高い。
糸川の功績は称えられ、小惑星の名前にもなりました。「イトカワ」